つい先週の女性週刊誌に、学習院を選ばなかった悠仁殿下について「学習院出じゃないと帝王教育が不安」とか「進学校に入ることで合格するべき生徒の席を一つ奪う」とかとんでもな事を書かれていました。
露骨に「裏口入学」という言葉も使われていて、その代表がなんと渡邊みどり女史。
「裏口でも何でもいいから好きな学校へ入るべき」というニュアンスですが、私は、この方はとうとうボケてしまわれたのかと。
思えば渡辺みどり女史は聖心女子大で上皇后と同窓というだけで皇室ジャーナリストになった方です。
上皇后が入内する時、学習院出身ではなかったので常盤会の怒りを買いました。
なぜか。
11宮家の臣籍降下や華族制度の崩壊で、学習院ブランドも危うい立場だったからです。
そこへ「聖心女子大」出の正田美智子さんが現れたものだから、それこそ壮大なバッシングの嵐というか、戦前の華族女学校出の方々はそれこそ、学習院出身であることがお妃の条件と思っていたんですよね。
確かに、皇族との歴史関係は学習院の方があります。
なんせ、学習院は皇族・華族の為に作られた学校なんですから。
誰でも入れる学校ではなく、家柄や血筋を優先した生徒選びがなされていたのでしょう。
家柄や血筋という後ろ盾がない正田美智子さんは、キリスト教の聖心女子大出だったので、何をアピールしたかと言えば「成績ご優秀」という事です。
正田家の先祖がどうのこうのというより、「美智子さんの通知表は常にAが一杯。総代にも選ばれた。さらに聖心女子の国際同窓会の為にヨーロッパにも行かれた」ということ。
美智子さんは論文も書ける、成績もよい。
それこそ「男性に負けないくらいの学力がある」というのが売りですよね。
一旦、「お妃」候補で負けてしまった学習院。
とはいっても、皇族にとって学習院は必ずしも卒業しなくてはならない学校ではありませんでした。
大正天皇は身体が弱かった為に幼稚園を中退、小学校の入学を1年遅らせています。
昭和天皇は乃木希典の元、厳しく教育され「雨でも車に乗らず歩いて登校しなさい」と言われてその通りにされました。
女性皇族の場合、学業が途中でも結婚が決まると中退する事が多かったようですね。
香淳皇后もそうですが、でも大層教養がおありになった。
皇族に必要なのは知識やテストの点数ではなく、その後に得る「教養」なのです。
正田美智子さんはいわゆる「学歴」「スポーツ」「文学的素養」もお持ちになっていたので学習院は歯が立たなかった・・・と言われてますけど、今思うと、華子妃とどれだけ何が違ったのか?最終的には育ちが出てくるね~~と。
そうはいっても、美智子さんのお子様方は全員学習院出です。
浩宮は、歴史を見ると成績が悪く本来は大学院に行けるような学力はなかったと思われますが、結果的に大学院まで行ってしかも留学までしています。
秋篠宮は理系で学習院以外の大学に行きたかったけど、当時はそれを認めて貰えなかったので仕方なく政治系の学科に。
紀宮は大学までで院にも留学もしていません。
週刊誌は、秋篠宮が過去、学習院に残らざるを得なかった事を恨んで仕返しに出たのではないかと言っています。ひどい誹謗中傷です。
「秋篠宮家は自由奔放な家庭で学習院を嫌っている」とか言われていますが、両殿下とも学習院出身です。
しかし、週刊誌は紀子妃に対しても「わざと丁寧な言葉遣いをして違和感があった」とか書かせる。
紀子妃はお父様が学習院の教授、自分も小学校から学習院育ち。彼女が「お妃」になった時は常盤会が本当に喜んだ事を覚えていますし、その後眞子様や佳子様が入学するにあたっては良好な関係を築いていました。
変わったのは、愛子内親王が幼稚園に入ってからです。
元々「学習院なんかに入れない」と言っていたのは徳仁親王夫妻です。
特に雅子妃は自分が田園調布雙葉の出でハーバードに行っていますから、心の底では学習院の偏差値を馬鹿にしていたでしょうし、そんな所に自分の娘は入れたくないと思っていたでしょう。
つまり、最初に学習院を忌避したのは紛れもなく雅子妃だったこと。
もし、愛子内親王が普通の子で少々頭がよかったら確実に学習院を蹴っていたという事です。それが願いだったでしょう。
しかし、幼稚園の時も小学校の時も慶応などから「警備が」とお断りを入れられて仕方なく学習院に入れた。
幼稚園はしつけに厳しい事で有名で、保護者にも容赦しない校風。
それを「厳しすぎる」と事もあろうに皇太子の口から園長に言わせて、あっさりと愛子内親王は「特別扱い」にしてしまった。
幼稚園の園長が小学校の入学と共に女官になるなどという前代未聞の事が起き、さらに本当にあったかどうかわからない「いじめ事件」から不登校、雅子妃の1年半にわたる学習院への付き添い登校。
これらの事で、当時、中学生や高校生の眞子様や佳子様にもかなりの被害があった筈。
現実の話も色々耳に入ったでしょうし、様々な事を考えて、まず、眞子様がICUに入り、
佳子様が学習院大学を中退してICUに入った。
佳子様の場合、左傾化した学習院が韓国語の授業が必須になったり、韓国への旅行があったりと危険性を察知しての退学だったと言われています。
そして悠仁親王はお茶の水幼稚園から中学まで。
お茶の水も昭憲皇太后が創設に寄与した学校ですから皇室とまるっきり関係ないわけではない。
学習院は「愛子内親王」「東宮家」という毒まんじゅうを食べたばかりに最後の皇位継承者の「入学」という栄誉を手にすることが出来ませんでした。
でもそんな事、最初からわかっていた筈です。
学習院はあまりにも雅子妃のやりたい放題を許しすぎました。
一緒に学習院に通う愛子内親王の学友達もどれだけ迷惑だったかわかりません。
不公平と理不尽さに耐える学習院保護者達。
そして今、大学もまた同様になっています。
「旧皇族・旧華族、そして現皇族が通う伝統を重んじる由緒正しい学習院」ブランドは雅子妃と愛子内親王によって完全に潰れました。
実は、戦後すぐから旧皇族や旧華族の「学習院離れ」はあったのです。
それは学習院が他の学校と変わらない私立学校となった日から、「誰でも入ろうと思えば入れる」という事で上流の方々からは嫌われた部分もあるのです。
でも、当時はまだ三笠宮家の子女達が通っていましたし、東宮家もそうだし、学習院としては今後もずっと皇族が選ぶのが当然の学校というおごりがあったでしょう。
それが崩れ、悠仁親王があくまでも学習院を避ける姿に、御用雑誌は「眞子さまは学習院大出じゃないから変な相手を選んだ」と書き立て、「秋篠宮家は自由奔放で放任主義」とイメージ作りを始めました。
最後の最後まで学習院は、秋篠宮家に対して敵対心を隠さなかったと思います。
もう後の祭りです。
秋篠宮両殿下は学習院出身。そのお二人が母校にお子様を入れることを選択できない苦しみを知らなかったのですか?
田園調布雙葉&ハーバード出の妃が見事に学習院ブランドをぶっ潰してくれたおかげで、学習院のよい所が一切なくなってしまったんですよ。
「あそこは育ちのいい方がいく学校」というブランド力が剥がれ落ち「学会信者とか外務省とか金持ちと寄付金を弾む人が行く学校」というレッテルが張られました。
これを払しょくするのは永遠に無理。
愛子内親王が学習院に入ったその日から、学習院の品格も名声も地に落ちる運命だったのです。
このまま、愛子内親王が登校しないまま卒業したり、院に進んだら尚更評判は落ちるでしょう。だって・・・内親王の同級生は真実を知っているんだもの。
落日の学習院。
それはそのまま落日の皇室にもつながります。
3代前が不肖で精神的におかしくて野心満々な親がくっついている得体のしれない皇后に皇室の品格と名声が潰されてしまった事は事実。
ただ、まだ悠仁親王がいるから・・・救いはあるかもしれません。