続きです~
午後は待乳山聖天へ
お供物は大根・巾着団子・酒です。
捧げた大根は生物なので本数がたまると、右側の外の台に下げられた大根が置いてあり持ち帰り自由でした。
下見の時は重いので貰いませんでしたが、今回は1本もありませんでした。日にちや時間帯で違いがありそう。
待乳山は標高9.5mの小高い山。
浅草観音が出現する兆しとして、待乳山が一夜にして吹き出し、金龍が取り巻いたとの伝説がある霊山です。
この待乳山聖天、江戸川区の平井聖天、埼玉県の妻沼聖天が、関東三聖天になっています。
ぐるりと一回り~
スカイツリーも見えます~
降りるときはケーブルカーで1階へ下りられます。
後半のメインは山谷堀公園。
昔は山谷堀がありました。かつては江戸中にその名が知られるほど有名な川でした。
掘られた目的は、荒川の氾濫に備えること、遊郭吉原への水路でした。
吉原遊廓は幕府公認で、初めは日本橋人形町にありましたが、明暦の大火(1655年)で焼失。
復興の際、風紀が乱れる、お城に近いなどの理由で当時浅草田んぼも言われた日本堤に移転しました。
前者を元吉原、後者を新吉原と呼びました。
新吉原は約2万坪の敷地に数千人の遊女を含め、1万人ほどの人口があったそうです。
明治になると、遊興の場所が都心近い花街に移るようになって吉原遊廓は衰退、
山谷堀も昭和になると異臭を放つドブ川状態のところもでてきて、次第に埋め立てが始まりました。
昭和33年(1958)に吉原遊廓が完全に廃止。
1957年には山谷堀はすべて暗渠となり、令和2年に大改修を終えて山谷堀公園になりました。
上流から、日本堤橋・地方橋・地方新橋・紙洗橋・山谷堀橋・正法寺橋・吉野橋・聖天橋・今戸橋の9つの橋が架けられていました。
現在は欄干の名前のみを残しています。
最下流の今戸橋は、大正15年(1926)に竣工した時の欄干が現存しています。
歩いていくと、下流側は幅が広くゆったりしていて、今戸焼の人形焼が置いてあります。
キツネ、猫、スズメ、カッパなどがあり、楽しい空間です~
所々に河津桜などが咲いています~
猪牙舟の模型もあります。
ノンビリと春の日差しを感じながら、約740mほどの山谷堀公園を歩きました。
日本堤から足を伸ばして、あしたのジョー像を見ます。
身長はかなり高め。180cm以上はありそう。
道路を渡って戻り、
見返り柳をみます。
垂れ下がるような細い枝は少なく、春から初夏の芽吹きはどうなのでしょうか・・・
ここから昔吉原遊廓があった場所を辿ります。
昔の名残か、路地へ入ると怪しい店が立ち並び、入り口には呼び込みの人が立っています。
吉原神社、飛び地の吉原弁財天へ立ち寄ります。
大震災の供養の為、弁財天を祀っています。
9月1日は関東大震災から100年だそうです。
弁財天の華やかな絵が壁に描かれています。
狭い敷地ですが、赤い幟や案内板、石塔などが所狭しと安置されています。
名残りの池。大きな鯉が窮屈そうに泳いでいました。
赤いボケが華やかでした。
ここでこの日の行程は終了です。代表の締めの挨拶、担当されたM氏にお礼を述べ解散です。
とりあえず解散しましたが、皆さん一緒に国際通りへ出て、バスで錦糸町駅へ向かいました。
地下鉄を乗り換えるよりも、錦糸町駅でJR総武線、御茶ノ水で中央線に乗換えたほうがスムーズなのでそのルートで。
ただ土曜日でバスが混んでいたのが誤算でした~
都心はやはり疲れましたが、楽しく歩けたので良かったです。
友人からは色々学べて良かった、資料もとても良くできていて、下見もお疲れ様でしたと労いの言葉を頂きました。
来月も都心ですが、ちょっと楽しい企画もあります。
これからおっとは資料作り、私は校閲。頑張ります~
昨日は昼頃雨の予報でしたが、朝から雨になり本降りでした。
夕方は止んだのでスーパーへちょっと行っただけでしたので歩数は3000歩に届かず・・・
今日は頑張って歩きます~
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