昔は、韓国や中国とのビジネスが多く、技術的な話が売り込みに重要だったので、我が師匠であるKKさんには随分とお出ましをいただいた。
仕事を通じての弥次喜多道中を繰り返すうちに、師匠が韓国中国に強い思い入れがあることが段々分かってきた。
かつて、鈴木善幸内閣の時、突然の教科書問題で日本中が右往左往し、ビジネスの世界も混乱に巻き込まれたことがある。
中韓出張の予定が既に出来上がっていたそんな時に、タイミング悪くこの問題が起こった。我が師匠と私は、政治とビジネスが別物と割り切って行く事にした。結果は散々で、何処へ行っても商売の話はゼロで、出てくる話は、「オマエは教科書問題をどう考えて居るか述べよ」と言うものばかり。一種の吊るし上げみたいなものだ。ソウル、北京、天津、上海、広州と3週間の全行程が教科書問題一色であった。
我が師匠は、日本の教科書の記述には問題があること、先の戦争で日本が多大な迷惑をかけたことを率直且つ丁寧に述べていた。
この時、酒を飲みながら、師匠の思い入れの話をじっくり聞かせてもらった。師匠は終戦前まで満州の新京(今の吉林省長春)に居た。父親が行政官として赴任していたのだ。当時は日韓併合に続く満州国建国で、朝鮮半島から中国東北部が、言わば日本であった。彼の地で、師匠は良くも悪くも色々見てきたのだろう。そして、敗戦。状況は一変し、日本人は追われる身となった。多くの日本人の脱出劇が始まる。途中で息絶える者、棄民として取り残された者。あの「大地の子」ではないが、想像を絶する話だと思う。
師匠一家が脱出する時、何が起こったか。
人間、いい奴も居れば悪い奴も居る。占領統治している側の官吏なんてものは、権力を傘に横暴な振る舞いをしたとしても不思議ではない。しかし、中には、相手を人間として同等に扱う官吏も居たということなのである。
一家を無事日本へ逃がす為に、父親を知る中国人やら半島人がネットワークを組み、行く先々で手助けをしたとのことだ。その時の事は深く師匠の心に刻み込まれたと言う
それにしても、師匠は不思議な人だ。
父親の背中を見て育ったと言えばいいのか、若い頃から異文化の中でその垣根を越える修練を積んできたと言えばいいのか、師匠は言葉(外国語という意味)は出来ぬが、何処へ行っても必ずファンというか、友が増えるのだ。この時思った。本当の国際人とはこういう人なのではないか。
定年が視野に入ってきた頃は、師匠の勤務地も昔の広島に移っていたが、家も広島の山奥に移し、土に帰れとばかり、野菜作りと海外留学生の受け入れにも力を入れていた。土曜や日曜に彼ら留学生と採れた野菜などを肴に酒を飲むのが何よりの活力になると言っていた。
この歳になって、未だ師匠の域には達せない。ま、無理だろう。
仕事を通じての弥次喜多道中を繰り返すうちに、師匠が韓国中国に強い思い入れがあることが段々分かってきた。
かつて、鈴木善幸内閣の時、突然の教科書問題で日本中が右往左往し、ビジネスの世界も混乱に巻き込まれたことがある。
中韓出張の予定が既に出来上がっていたそんな時に、タイミング悪くこの問題が起こった。我が師匠と私は、政治とビジネスが別物と割り切って行く事にした。結果は散々で、何処へ行っても商売の話はゼロで、出てくる話は、「オマエは教科書問題をどう考えて居るか述べよ」と言うものばかり。一種の吊るし上げみたいなものだ。ソウル、北京、天津、上海、広州と3週間の全行程が教科書問題一色であった。
我が師匠は、日本の教科書の記述には問題があること、先の戦争で日本が多大な迷惑をかけたことを率直且つ丁寧に述べていた。
この時、酒を飲みながら、師匠の思い入れの話をじっくり聞かせてもらった。師匠は終戦前まで満州の新京(今の吉林省長春)に居た。父親が行政官として赴任していたのだ。当時は日韓併合に続く満州国建国で、朝鮮半島から中国東北部が、言わば日本であった。彼の地で、師匠は良くも悪くも色々見てきたのだろう。そして、敗戦。状況は一変し、日本人は追われる身となった。多くの日本人の脱出劇が始まる。途中で息絶える者、棄民として取り残された者。あの「大地の子」ではないが、想像を絶する話だと思う。
師匠一家が脱出する時、何が起こったか。
人間、いい奴も居れば悪い奴も居る。占領統治している側の官吏なんてものは、権力を傘に横暴な振る舞いをしたとしても不思議ではない。しかし、中には、相手を人間として同等に扱う官吏も居たということなのである。
一家を無事日本へ逃がす為に、父親を知る中国人やら半島人がネットワークを組み、行く先々で手助けをしたとのことだ。その時の事は深く師匠の心に刻み込まれたと言う
それにしても、師匠は不思議な人だ。
父親の背中を見て育ったと言えばいいのか、若い頃から異文化の中でその垣根を越える修練を積んできたと言えばいいのか、師匠は言葉(外国語という意味)は出来ぬが、何処へ行っても必ずファンというか、友が増えるのだ。この時思った。本当の国際人とはこういう人なのではないか。
定年が視野に入ってきた頃は、師匠の勤務地も昔の広島に移っていたが、家も広島の山奥に移し、土に帰れとばかり、野菜作りと海外留学生の受け入れにも力を入れていた。土曜や日曜に彼ら留学生と採れた野菜などを肴に酒を飲むのが何よりの活力になると言っていた。
この歳になって、未だ師匠の域には達せない。ま、無理だろう。