よし坊のあっちこっち

神出鬼没、中年オヤジ、いや、老年オヤジの何でも有りブログだ!

1995年と言う年

2008年12月29日 | いろいろ
この年は公私共に特別の年であった。

まず、前年の暮れに会社から内示があり、アメリカへの転勤が決まった。そして、正月元旦に家族に伝えた。青天の霹靂とはこういうことを言うのだろう、多分。皆、あっけにとられたという顔である。

一月は成人式が絡んだ連休がある。単身赴任中のよし坊は前週の金曜日に東京から戻り、17日は休みをとり、東京への移動日に当てた。

早朝の電車の時間に合わせて、ワイフが5時半過ぎに起きた。そろそろ起きなくてはと思って、チラッと目覚ましを見ると5時45分くらいを指していた。目をつぶり、起きる覚悟を決めて、と思っていたら、何やら遠くの方で、そう、枕の下の方からかすかにゴォーと唸るような音が聞こえてきた。なんだろう、と思ったら、やおら “ぐらぐらドーン”である。半身を起こしたが、一瞬何が起こったのか分からなかった。こりゃ大揺れだ。地震だ、と飛び起き、脱兎のごとく(?)子供部屋へ。子供を守らにゃ。飛び込むと、二人の娘はベッドの上に起きていて、「お父さん、遅い!」。何とも役に立たない父親なのだ。
こういう時は色々な事が重なる。いつもは、東京へ戻るのに京都経由の新幹線。たまにゃ初めてのルートも悪くないと、近鉄で名古屋経由の新幹線の切符にしていた。あんな大地震とはツユ知らず、最寄駅から近鉄電車に乗り、乗り換えの駅についてからがおかしくなった。一向に電車が来ない。アナウンスも要領を得ない。暫くして名古屋行きが来るには来た。こんな事ならいつもと同じルートにすればよかったと悔やんでみたものの、要領を得ぬまま名古屋に着いてテレビ画面でビックリ仰天。阪神高速がひっくり返っている。死者が既に100人ちょっと。この時は未だ、あの大惨事の実感がない。新幹線は名古屋で折り返し運転と言う。兎に角新幹線で東京に着いて又びっくり。死者が千人単位なのだ。朝5時46分に起きて着いたのが夜の7時。奈良の震度4でも相当怖い揺れだったが、画面の被害状況は尋常ではない。6月にはアメリカへ赴任したので、神戸復興の姿を見たのは2006年、見事な復興振りだった。

転勤準備に追われながらも、3月20日の結婚記念日を迎えた。と、朝から何やら騒々しいテレビのニュース。あの忌まわしい地下鉄サリン事件の発生だ。聞きなれない”サリン“。まさしくテロだ。翌日会社に行くと、ビルの地下の喫茶店のマスターが地下鉄に乗り合わせ被害にあったらしい。
思い起こせば前年の2月に東京へ単身赴任。住み家は会社契約の単身赴任専用アパートで、所は亀戸ときた。元々東京っ子とはいえ、下町知らずだったから、初めての下町はエキサイティングの一言。駅から10分のアパートまでの道すがら、電柱にやたらの、「オーム出て行け」張り紙。当時は何のことやらさっぱり。鳥のオームしか頭に浮かばず、である。アパートから5分も歩けば、あの異臭騒動のオーム亀戸道場があったなんてつゆ知らず。あー灯台下暗し。この事件で漸く張り紙の意味をナットク。ちと、鈍感であったが。

迎えた6月14日、成田発のJAL便でアメリカ生活の一歩をスタート、早いもので13年が過ぎた。

あの1995年、特別な年である。