日本水仙がほころんでいます。
醜悪な殺人事件がおきると、あれやこれやメディアが挙って事実関係を掻き乱して、加害者被害者双方とも世論とか風評に晒され、そして当事者の家族や親族は、悲惨な行く末となっていくのが、なんともおぞましい。
出典は忘れたが、吉本隆明さんが親鸞を引いて、人が人を殺すというのは容易なことではなく、なんらかの必然なしには成せることではない、と言っていた。川崎の事件にしろ、淡路島の事件にしろ、そう思わざるを得ない。対面的に人を殺すというのは相当なコンフリクトがなければできないことなのである。
おそらく加害者と言われている人と被害者となっている人との間には、憎しみと親しみが錯綜していたに違いなく、その結果としての事件であるのだから、どちらが被害者でどちらが加害者であるのか、一概に断定できる訳ではない。もちろん、法的には簡単なことなのであろう。直接的な加害者を極悪非道の人とすれば片がつく。
難しい問題なので、深入りはできないが、我々としてはメディアの過剰な勧善懲悪には、一歩引いて考えたい。
と同時に問題の状況から、人が普通に自立して生活するのが、非常に困難になっているということを示していないか、と思う。川崎の少年は加害者のグループに所属することで自分の存在を確認したかったのであろうし、淡路島の事件でも地域社会の中で、自分の位置を確保したかったに違いない。日本が維持してきた農村的な共同体意識が健在だった頃は、いわゆる道に外れたとしても、何らかの救済方法があったと思う。そういう出口のなさが今回のような事件に思うことである。
詳しいことは分からないが、ただテレビ、新聞の騒ぎようだけには、だまされないようにしたい。私には、事件そのものを黙って飲み込む外にないのである。【彬】