小池新東京知事ですが、似ていませんね。垂れ目、エクボが特徴なのですが。
東京オリンピックを控え、会場の設営問題で、東京都は大揉めに揺れている。小池知事によると、豆腐屋さんのように一丁だ二丁だとか、兆を超える大金が湯水のように飛び交っているというのだ。数々の競技を運営するのだから、その費用も当然高騰するに違いない。
昔、たまたま聞く機会があったのだが、IOC(JOCではない)の委員だった猪谷千春さんが次のように言っていた。オリンピックは競技種目が多すぎ、費用もかかりすぎて、将来、開催する受け入れ都市がなくなってくるのではないか、との懸念が委員会の共通した考えだと。さもありなむ。1964年の東京オリンピック(柔道を競技種目に押し入れた)以来で次と競技が増え、種目も圧倒的に増えた。
それでも大会が円満に運営できたのは、小規模の競技でも、アマチュアリズムという王道の元に国家をあげて何としても運営してあげたいと考えたからだろう。
今は、オリンピックは完全に商業化・興行化した。その放映権、開催時期など、興行的利益として多額な金銭が多重にまとわりついている。にもかかわらず、かつてのアマチュアリズムの思考が捨てきれずにプロ=アマの落差に戸惑っているのが、TOKYOをはじめ、開催地の動向のように思う。最高の施設を作り、気持ち良くプレーしていただき、世界中の観客にも満足してもらう、というのは、一種のアマチュアリズムである。プロなら、そんなことはしない。人気がなければ、ドサ回りである。
私たちは、もっとプロという目を持ってオリンピックを見直したいと思う。プロというのは別言すれば産業として成り立つということである。商業化したオリンピックは各種競技それぞれの産業規模に応じて、ビジネスとして大会を開くべきだ。
スポーツ産業というのは、大勢の観客のほか、その裾野にスポーツを「する」人が層をなしている。そして、健康増進という面から、あるいは用具産業として、そして有効なメディア的機能など多様なビジネス的機能を持っている。たとえば、それを有効に活用しているのが、ゴルフであり、サッカーであり、野球である。面白いことに、この3種はオリンピックにそれほど乗り気ではない。
2020TOKYOも、施設や受け入れ体制を、ビジネス面から見直すべきだ。「おもてなし」などというのは、アマチュアリズムの残滓である。【彬】