以前、読売新聞だったか、社の編集委員の解説記事で、「須く」を「多くの」という意味で使っていることに対し、呉智英さんが誤用も甚だしいと苦言を呈していた。「須く」は、「須く・・・べし」と続く用語であって、多いという意味ではないという。ネット上から引用します。
ーー「すべからく」は元来、漢文を読み下した言葉で「すべからく〜すべし」という使用の仕方をすべきだが、学生運動の演説などで「帝国主義勢力は〜、すべからく〜(打倒すべき)」などと、長々とした文章で使われるケースが多かったせいか、「『すべて』と同じ意味の言葉」として使われるようになった。そのことに気がついた呉は、「すべからくの誤用」をする著述家たちを、「単なる誤りではなく、自分の文章を高尚なものに見せようとした『卑しい考え』による誤用だ」と批判していた。ーー
呉さんは、マンガ批評家であり論語の研究家であり、自身「封建主義者」と諧謔的にいう気鋭の批評家である。もっともな指摘である。
私は文芸に詳しいわけではないから、言葉の誤用について、いちいち指摘できないが、以前から気になって仕方ない言葉に「檄を飛ばす」という表現がある。最近も新聞のスポーツ記事に、監督が選手たちに「檄を飛ばして」云々という表記を目にした。いうまでもないが、「檄」というのは「檄文」のことで、武将が同志たちに対して蜂起を促す文書のことである。この檄文を使者に託すことを飛ばずという。相手に対して直接発する言葉ではない。「檄」を「激励」の「激」だと勘違いしているのだろう。スポーツの場面ではおそらく「活を入れる」が適当なはずである。
そんなことを思っていると、NHKの日曜美術館で出演者の1人、森美術館の館長という人が、伝え広がっていくことを、一度にあらず二度、三度と「でんぱん、でんぱん」という。おそらく「伝播」のことだろう。伝播は「でんぱん」ではなく「でんぱ」と読む。でんぱんでは意味が通じない。
言葉は生き物であるから、誤用が定着してしまうことはままあることだ。例えば重複、これを「じゅうふく」と読むことが普通になってしまった。本来は呉音による「ちょうふく」が正しい。
誤用によって何か被害が出るわけではないが、文化ということで考えると勧められたことではない。【彬】