ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

「感染拡大」という用語

2021年05月24日 | 日記

                          ドクダミ

 テレビでも新聞でも同じだが、メディアで報じられる情報が価値であるのは、それが人々に重要であることを前提としている。その前提が崩れれれば、マスメディアの存立基盤はなくなる。  
 今SNSの拡大で、その重要性が失われつつあるようだ。私の知る限り、若い人で新聞を定期購読している人はいない。また伝えられるところによると、若い人は、通常のチャンネル・テレビでさえ半数程度くらいしか見ていないとされている。
 世の中の多様化が進んで、単一の情報源だけでは対処できないくらいに、職業や文化・芸術・芸能が分散しているし、またマスメディアに依存しなくても、時代の状況をいち早く把握できる情報環境になっているからだろう。確か以前、関川夏央氏が「知的大衆諸君、これもマンガだ」という書物で、受け手の知的向上を指摘していた気がするが、その分、メディアはその存立基盤の危うさに当面しているかのよう。そしてその失地回復のため、報道の価値をなんとか強める工夫をしているように思う。
 その一つの方策が、些細な出来事を大袈裟に伝え、危機意識を煽ることによって、報道の「価値」を高めることにあるようだ。
 現在、その代表的な表現が「感染拡大」という用語だろう。
 コロナ問題を扱うときは、その前提に感染拡大がある。本当に拡大しているかどうかではなく、この用語が導入語となって報道されている。だから、この感染拡大はどこからやってくるのか、これを防ぐことはどうしたら良いか、が報道の基準になる。
 反面、日本がどれほど汚染されているかどうかを調査・報道することを除外してしまう。感染状況を最もよく掌握しているのは、保健所である。保健所からの情報が皆無なのだ。 
 事実から出発するのではなく、特定の観念から記事を書く。これが「感染拡大」である。こうした前提から発せされることを「煽る」という。昔の左翼風に言えば、アジテーションである。
 特定の価値観から記されるものを報道とは言わない。
 今、マスメディアは自己変革を迫られているように見える。
 現役の記者達が本紙ではなく、Twitterとかyou-tubeで社とは関係なしと断って投稿しているのを見ると、私など不思議に思う。普通の会社などでは許されない行為だ。また記者が独自で自著を自社以外の出版社から得意気に発行しているのも不思議だ。
 社として経営方針が立たないのだろう。これからのマスメディアがどういう道を進むことになるのか、気になることではある。【彬】

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする