カワラナデシコ
歳をとると物忘れがはげしくなる。よくあるのは、置き忘れ。さっきまで使っていたハサミはどこにいった? ボールペンはどこだ? 探し回っても見つからない。その典型がメガネだ。老眼鏡は必要なときだけ掛けるから、どこに置いたかすぐに忘れる。笑い話にあるトンボメガネのように頭にずらしたメガネを探し回る図などは、当事者にとっては笑い事ではない。
悲惨だ。
人の名前、花の名前、土地の名前、などなども忘れる。会話をしていると「えーと、あれ、あれ、あれですよ、あれ」などと次々と続き、忘れていることを思い出すのに、一苦労する。思い出せればいいのだが、そうでないとその心理的苦しみ、圧迫感は、当人でなければわからない辛さがある。
歳をとるとなぜ物忘れをするのだろうか。
昔は長老といって、昔のことをよく覚えていることで尊敬されたものだ。いまはそうではない。昔のことなどはネット上でいくらでも調べられる。長老たちがものをよく憶えていたのは、おそらく時代のせいだと思う。時代の動きがゆっくりだったから、人々は過去のことが過去ではなく、「今のこと」として記憶できたのだとおもう。
たとえばボールペンの置き忘れを例にとる。昔だとボールペンは筆立てという決められた場所に置かれていたはず。使ったらそこに戻す。ボールペンが一家にとって必要だったからである。ところが今はボールペンは何本も何本の一家に散らかっている。大事な筆記用具としてのボールペンではなく、軽いメモ書き用として散らかっている。だから置き忘れる。花の名前なども同じだ。昔は花は季節ごとの花として代表的なもの、例えば菊とかひまわりとか記憶されていたはず。ところが今は外国産の花々が季節関係なく氾濫している。せっかく名前を覚えても記憶が生活と結びつかない。
私は、老人を生理的な特長で理解してもらいたくないのである。歳をとったから物忘れが進むとは思わない。覚えているべきものは忘れたりしないものだ。ただ生活習慣が昔と大きく変わったから、その対処方法に適当な方法がみつからないのだ。何をどうお覚えておくべきか、その判断が難しいのである。【彬】
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