カタバミの花です。
日大のアメフト部の引き起こした反則プレイが大ごとになって、当該試合だけでなく、スポーツ界全体のパワーハラスメント状況の問題にまで広がってしまった。広告塔の役割を背負ってしまったスポーツの、勝利という結果を最優先にもとめる、言ってみれば自業自得のようなものである。
今回のプレーを巡っては、思うことがいくつかある。
アメリカンフットボールというのは闘球と訳されるほどの格闘技である。だからラフなプレーは当たり前、そのための防具も身につけている。が、インプレー中ならともかく、笛が鳴ってプレーがストップしたのにもかかわらず、背後から相手を痛めつけることの、競技的な意味があるとは到底おもえない。監督は秋の本戦に有利だからと指示したとされるが、いくら強権的な監督とはいえ、そんな作戦指示はありえない。おそらく、選手と監督・コーチの間で大きな齟齬、あるいは副次的問題があったに違いない。
こうした問題は、細かく見れば、日大のアメフトティームに特徴的なものではなく、野球やサッカーを含め、すべてのティームスポーツが抱える問題なのではないのか。指導する側と、受け取る側の間で、あるいは選手間(特に上級生下級生間の)での、戦術や技術的な問題とは関わりのない、嫌がらせや暴力的な行為が日常的に起こっているのではないだろうか。
特に、アマチュアスポーツ界が問題である。
プロスポーツなら、勝敗の結果がすべて金銭の報酬に帰せられるから、陰湿な暴力沙汰は起こらない。監督やコーチにしたって、勝ってなんぼ、その報酬が自分にはね返ってくるわけだから、明快である。ところがアマチュアスポーツの場合、勝ち負けは報酬ではなく、栄誉の問題であって、そこに過度な幻想的な価値が付いて回る。大学や高校などは、スポーツの成果を仕立て上げ、学校の価値を高めるのに利用している。高校野球などをみれば明らかである。
スポーツは目的が明快である。だから分かりやすいドラマが生まれる。昔、「孤独の報酬」というイギリスの名画あった。主人公は好きな女性に気に入られるよう、人気のラグビーに打ち込む。そして勝つために主審の目の届かないところで汚い反則行為を行い、そして成り上がっていくストーリーである。
スポーツは単純で明快だ。そこから正義や純真さを学ぶべきと言った言説が横行する。しかしアマチュアスポーツに馴染んだ人は、その背後に訳の分からないいびつな考えがはびこることを知っているのである。【彬】
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