ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

ロシアの土地制度(前回の補筆)

2023年10月09日 | 日記

              カンナ
 
 ロシアの土地は国有ではなく、民営化されているはずだ、との意見がある。かつてのコルホーズ、ソホーズは解体され、農民に与えられたはずだ、と。確かにこうした集団農場は国家の指導から解放され、協同組合方式やら二、三の形態で受け継がれ、耕作方法など自由に運営されている。
 しかし、これらの土地は多くの農民をシベリアなどに放逐した後の農地であって、元の農民が戻ったわけではない。しかもこうした農地は、ロシア全土に占める割合はほんの僅かである。
 農林省の農林水産政策研究所の長友謙治氏の報告(主要国農業戦略横断・総合]プロ研資料 第7号)によると、ロシアの土地所有を表にする次のようになる。
   

   類型区分

総面積(万ha)

 うち国公有

  私有

私有割合

すべての土地

171,251.9

157,909.9

13,342.0

7.8

農業目的地

38,373.8

25,537.6

12,836.3

33.5

都市・集落地

2,032.7

1,556.7

476.

23.4

産業・国防等目的地 

1,733.7

1,706.1

27.6

1.6

特別保護地

4,703.3

4,701.9

1.

0

森林フォンド地

112,632.0

112,632,0

0.

0

水利フォンド地

2,805.5

2,805.4

0.1

0

保留地

8,970.8

8,970.3

0.6

0

           
 広大な占有地のうち、私有地は全体でわずか7.8%、農地でさえ全農地の33.5%に過ぎない。
 依然として国土は国家に所属しているのである。
 
 日本ではどうか。
 国交相によると、2013年度の日本全国における所有主体別の土地面積割合は、国有地が19.9%、都道府県有地が2.8%、市町村有地が5.5%で、個人民有地が34.0%、法人民有地が5.8%、民有地(免税点未満)が3.8%、その他が28.2%だった。
 都市部においては、民有地は全体の40%を超えているのである。
 
 国家の条件は、領地、国民、主権を三要素としている。その領地を国民ではなく、国家が所有しているとすれば、その結果は自ずとわかるであろう。国民が領地を私有することにより、国家の主権は国民のものとして保障される。土地を持たない国民の国家がどういうことなるのか、中国、ロシアの現実が示している。【彬】
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長引くウ露戦争

2023年10月04日 | 日記

                曼珠沙華


 ウ露戦争が止みそうにない。今後1,2年と続いていくのだろう。気候変動どころではない。鬱陶しい状況が今後永く続くとなると、生きていく知恵とはなんなのだろうか、と疑ってしまう。
 なんとかならないものか。
 おそらく第二次世界大戦もこんな状況だったのだろうと想像する。一旦戦争に突き進んだからには、ドイツにしろ日本にしろ、国家の廃絶に至る全面的な敗退に至るまで手を引くことができなかった。おそらくロシアやウクライナでも、いずれかの政体が変わらないかぎり、この戦争は終わらないのだろうと思う。
 ということは、この戦争は世の中の仕組みそのものを作り変えるべく大きな出来事なのだと言っていい。たとえば第二次世界大戦の後、世界は国際連合という政治の仕組みを作り、民族の独立という願いを実現したのと同じように。ならばこのウ露戦争の今後にどんな政治的な理想が隠されているのか。そのことが見えてこない。鬱陶しいのはそのせいでもある。
 私見だが、この戦後はロシアや中国の土地所有のあり方が問題となるに違いない。ロシアの戦闘継続能力は天然ガスや石油に関わる天然資源に土地所有の在り方に関わっているように思うからだ。彼の国では土地は私有化されていない。基本的に国有である。中国も同じ。土地が国有化されているので政治的権力が強大化される。これは社会主義的理想への残像である。第二次世界大戦後はこの部分が逆に賛美され、政治的目標にもなった。その後、ソ連の崩壊で社会主義への幻想は消えたが、土地の国有化は解決せず、今に残っている。
 ロシアのウクライナ東部の編入をみると、土地所有への頑迷な思いがあるようにおもえるのである。中国とインドの紛争、あるいは中国のウイグル地区に対する強引な政策にもそれがある。露・中は別にして、アラブやアフリカ諸国での土地所有の在り方が今後の世界の大きな焦点だと思う。【彬}

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老人と記憶の喪失

2023年10月02日 | 日記

          カワラナデシコ

 歳をとると物忘れがはげしくなる。よくあるのは、置き忘れ。さっきまで使っていたハサミはどこにいった? ボールペンはどこだ? 探し回っても見つからない。その典型がメガネだ。老眼鏡は必要なときだけ掛けるから、どこに置いたかすぐに忘れる。笑い話にあるトンボメガネのように頭にずらしたメガネを探し回る図などは、当事者にとっては笑い事ではない。

悲惨だ。

 人の名前、花の名前、土地の名前、などなども忘れる。会話をしていると「えーと、あれ、あれ、あれですよ、あれ」などと次々と続き、忘れていることを思い出すのに、一苦労する。思い出せればいいのだが、そうでないとその心理的苦しみ、圧迫感は、当人でなければわからない辛さがある。

 歳をとるとなぜ物忘れをするのだろうか。

 昔は長老といって、昔のことをよく覚えていることで尊敬されたものだ。いまはそうではない。昔のことなどはネット上でいくらでも調べられる。長老たちがものをよく憶えていたのは、おそらく時代のせいだと思う。時代の動きがゆっくりだったから、人々は過去のことが過去ではなく、「今のこと」として記憶できたのだとおもう。

 たとえばボールペンの置き忘れを例にとる。昔だとボールペンは筆立てという決められた場所に置かれていたはず。使ったらそこに戻す。ボールペンが一家にとって必要だったからである。ところが今はボールペンは何本も何本の一家に散らかっている。大事な筆記用具としてのボールペンではなく、軽いメモ書き用として散らかっている。だから置き忘れる。花の名前なども同じだ。昔は花は季節ごとの花として代表的なもの、例えば菊とかひまわりとか記憶されていたはず。ところが今は外国産の花々が季節関係なく氾濫している。せっかく名前を覚えても記憶が生活と結びつかない。

 私は、老人を生理的な特長で理解してもらいたくないのである。歳をとったから物忘れが進むとは思わない。覚えているべきものは忘れたりしないものだ。ただ生活習慣が昔と大きく変わったから、その対処方法に適当な方法がみつからないのだ。何をどうお覚えておくべきか、その判断が難しいのである。【彬】

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