このところ寒さが厳しくなってきている。
乾燥による火災の危険も嫌だが、寒いのも・・・。
体のあちこちに痛みが出てくるようになった。
若い頃に無茶苦茶に体を動かしていたことのツケが今になって出てきたようだ。
少し前には、神経痛の話もした。だんだんそういうことが増えていくのだろう。
そう、2年前の正月は京都で迎えた。年末からゆきたんく一家と女房ののりたんの両親と出かけたのだ。
神経痛はその時に出たのだった。
京都の銀閣寺、そう慈照寺参道と哲学の道沿いにある。
その哲学の道を歩いている時には足の痛みも忘れ、四季の顔がはっきりする季節に来たら、綺麗だろうと創造しながら歩いていた。
哲学の道に沿って桜が植えられている。その桜の枝を見ると芽が膨らんできているではないか。
12月31日の昼下がりのことだ。
少し風が吹けば身を切られるような冷たさの中で、春への準備を進めている桜に頭が下がる思いがした。
何か嬉しくなってしまった。少しだがホンワカとした気分で、哲学の道をのんびりと歩くことが出来たのだ。
桜の芽だけではないだろう。周囲を見回すと、神社の幟の赤、小さなかわいいお地蔵さんの涎掛けの赤が目に飛び込んでくる。まあ景観を損ねないように派手な演出はされていない。
その中で咲いている花を見つけた。ある家の石垣の隙間から、つやつやした緑の葉をいくつかつけた枝の先にピンクの綺麗な花が咲いていたのだ。
健気な花
「健気」という言葉がそのまま当てはまる感じだった。椿かぼたんのようにも見えるが、カメラの拡大では分からない。
そして蕾も1つついているのが分かった。
寒くて身が縮まる季節に、しっかりとお日様の下で一生懸命に咲いている花を見たのは初めてだった。
それにしても、哲学の道をあるいて「哲学」はしていないゆきたんくだった。