読売新聞の「戦争責任検証委員会」が、なぜあのような無謀な戦争に突入してしまったのか、どうして戦争を早期にやめられなかったのかを、この1年間随時連載したものを締めくくりとして、13, 15日に分けて、日本の政治・軍事指導者や幕僚、高級官僚らの責任の所在とその軽重を報告するとのことで、13日の朝刊から、備忘録としてメモ書きしてみました。
読売新聞では、「大東亜戦争」「太平洋戦争」「15年戦争」「アジア・太平洋戦争」「第二次世界大戦」「あの戦争」「先の大戦」といった呼称があるのを、「昭和戦争」と呼称することとしたそうです。
昭和戦争の出発点を「満州事変」とし、「原爆・ソ連参戦」までの間を、8つに分けて、責任の重い人物を挙げ、解説と異を唱えた人も書いてあります。
1.満州事変
■石原莞爾(いしはらかんじ)(関東軍参謀)
満州事変を引き起こした首謀者
日米両国が東西両文明の盟主として、戦争で世界一を争う世界最終戦論者
全支那を利用すれば、20年でも30年でも戦争を継続できると、陸軍大学出身のエリート将校の集まりの「木曜会」で発言。
■板垣征四郎(いたがきせいしろう)(関東軍参謀)
満州事変を引き起こした首謀者
守備範囲を超えて吉林省へ進撃するとき、反対する本庄繁関東軍司令官を執拗に説得。
■土肥原賢二(どひはらけんじ)(奉天特務機関長)
奉天占領時の臨時市長
満州国元首に溥儀を担ぎ出した
■橋本欣五郎(はしもときんごろう)(参謀本部第二部ロシア班長)
青年将校を集めて「桜会」を結成。「三月事件」「十月事件」の二つのクーデター未遂事件を起こした。後の五・一五事件、二・二六事件など頻発するテロ、クーデター事件のさきがけをなした。
時の首相、若槻礼次郎は、現地軍の暴走を抑止できず追認してしまうのでした。
犬養毅首相が五・一五事件で暗殺された後、斎藤実内閣で満州国が承認されましたが、国際連盟でリットン調査報告書に基づく勧告が採択されると、松岡洋右代表は脱退を通告して退場したのでした。
満州事変 - Wikipedia
三月事件 - Wikipedia
十月事件 - Wikipedia
2.日中戦争
■近衛文麿(このえふみまろ)(首相)
濾溝橋事件の4日後の1937年 7月11日に、現地停戦協定が成立し、局地的には解決に向かっていたが、同じ日に華北への派兵声明を発表し、軍事的なエスカレーションに火をつけて、その後の重大局面でも指導力を発揮せず、戦争を日中間の全面戦争へ発展させてしまった。
蒋介石との頂上会談ほか、和平を模索したこともあるが、陸軍などの反対に遭うと腰砕けになった。
■広田弘毅(ひろたこうき)(首相、外相)
軍部大臣現役武官制の復活、南方進出を定めた「国策の基準」、日独防協定の調印など、禍根を残す決定をした。
■土肥原賢二(どひはらけんじ)(奉天特務機関長)
日中が全面戦争に入る道を用意した華北分離工作を担った中心
河北、チャハル両省から国民党機関を排除し「き東防共自治委員会(政府)」という傀儡自治政府をつくった。
■杉山元(すぎやまはじめ)(陸相)
広田外相、米内海相とともに国民政府との和平交渉の打ち切りを主張
戦争拡大派で、首都・南京陥落後、講和条件をつり上げ、和平のチャンスをつぶした。
■武藤章(むとうあきら)(参謀本部作戦課長)
当初、陸軍の中枢が拡大派と不拡大派に割れ、石原参謀本部作戦部長が不拡大方針をとったが、意向に逆らい田中新一陸軍省軍事課長と連係して、積極的に派兵を推し進めた。
3.三国同盟・南進
■近衛文麿(このえふみまろ)(首相)
三国同盟、南部仏印進駐を国策として最終決定し、対米戦争へと誘引した。
■松岡洋右(まつおかようすけ)(外相)
米国の対日圧迫を「誤断」し自ら隘路にはまりこんだ過ちの第一要因である、対米軍事同盟の日独伊三国同盟の締結(1940年9月)を推進し、ソ連を加えた「四国協商」により米国に譲歩を迫ろうとした。
しかも締結時にドイツは対ソ戦を模索しており独ソ開戦('41年6月)で構想は崩れた。
■大島浩(おおしまひろし)(駐ドイツ大使)
独ソ開戦時に、ドイツ勝利を盲信し、偏ったドイツ有利の情勢判断を流し続けた。このため、松岡の構想が崩れたとき、三国同盟を破棄して、対米関係改善に転じる道をふさいだ。
■白鳥敏夫(しらとりとしお)(駐イタリア大使)
「革新外交」を唱道し、親独・反米姿勢のために冷静な国際情勢判断を欠き、外交路線を謝らせた。
■永野修身(ながのおさみ)(軍令部総長)
南部仏印進駐を主導
米国が何度も警告を発し、野村吉三郎駐米大使が石油禁輸の可能性を打電していたが、英軍基地のある英領マレーを攻略し、南部仏印に基地を設け、蘭印の石油を奪取するとし、「対英米」戦争に向かわせた。
■石川信吾(いしかわしんご)(海軍省軍務局第二課長)
親独・反米傾向の海軍中堅幕僚のリーダーで、永野らに南部仏印進駐の断行を迫る意見書を起案した。
また、対米開戦の判断で重要な資料となる船舶損耗量など物的国力判断でも、米国の国力を過小評価した。
4.日米開戦
日本の国力で対米戦を戦えるかの冷静な判断力を失ったまま、どうして日米戦に突入したのか。
■東条英機((とうじょうひでき)(首相兼陸相)
米国との開戦回避の交渉努力をした第2次近衛内閣に、和平条件の中国からの撤兵を認めず猛烈な抵抗をした。
後継首相となり、天皇の意思として「避戦」にむかうも任務をはたせなかった。
開戦の主たる責任は、天皇を輔弼する立場にあった首相の東条はじめ、外相の東郷茂徳、蔵相の加屋興宣ら内閣の閣僚に着せられるが、東郷、加屋は閣内で避戦を強く主張していた。
■杉山元(すぎやまはじめ)(参謀総長)
陸軍で主戦論を説いた
■永野修身(ながのおさみ)(軍令部総長)
海軍で主戦論を説いた
■嶋田繁太郎(しまだしげたろう)(海相)
対米戦主戦論者に引きずられ、確たる信念を示さなかった。
■岡敬純(おかたかすみ)(海軍省軍務局長)
陸軍(武藤軍務局長)が出した、海軍は戦争を欲せずと表明すれば陸軍も従うとの提案を蹴った。避戦のチャンスをつぶした。
■田中新一(たなかしんいち)(参謀本部作戦部長)
陸軍で主戦論を説いた
■鈴木貞一(すずきていいち)(企画院総裁)
「蘭印の石油産地を占領しても、破壊されるので、石油の入手は困難」と近衛内閣当時報告していたが、開戦直前の国力判断では、「辛うじて自給可能」と前言を覆し、開戦した方が「国力の保持増進上有利なりと確信する」と主張して、開戦を後押しした。
■木戸幸一(きどこういち)(内大臣)
近衛の後継首相に東条を推した。
東条に天皇の意思として、開戦方針の白紙還元を伝えたが、東条は任務を果たせず、東条の首相推薦は誤算であった。
5.戦争継続
無謀な作戦を継続した。なぜ、戦局の転換を見過ごしてしまったのか。
■東条英機((とうじょうひでき)(首相兼陸相)
'44年2月、健軍以来のルールを破って参謀総長を兼務し、嶋田繁太郎海相にも軍令部総長を兼ねさせた。
ミッドウェー海戦以後制海・制空権を失った日本軍はもはや戦争を継続することが困難であったが、無視継続した。
■小磯国昭(こいそくにあき)(首相)
戦争指導班が「今後帝国は作戦的に大勢挽回の目途なく、逐次じり貧に陥るべきをもって、速やかに戦争終末を企図すべき」と結論づけ、東条に変わり登場したが、戦争終結の好機を生かせず、「一撃講和論」を唱え捷号作戦とその後の本土決戦を決意した。
小磯が新設した最高戦争指導会議では、「戦争完遂」「重大戦局を克服突破」といった勇ましい言葉ばかりが飛び交っていた。
'44年10月、フィリピン・レイテ島での陸海戦で大敗を喫し、海空戦力の大半を失ったが、大本営陸海軍部は沖縄と本土での最終決戦を決意し、硫黄島の玉砕、沖縄戦の悲劇を回避する道を閉ざした。
■永野修身(ながのおさみ)(軍令部総長)
東条体制下で、何の成算もないのに「戦争完遂」をうたっていた。
■杉山元(すぎやまはじめ)(参謀総長)
日本軍は真珠湾の勝利におごり、米軍の本格的反攻次期の判断を誤ったまま、ガダルカナル島奪還作戦に突入し、杉山元参謀総長は兵力の逐次投入という愚をおかした。
日米開戦の見通しで「南洋方面だけは3ヶ月くらいでかたづけるつもり」と天皇に回答。
成算のないなかを「戦争完遂」をうたった東条体制の参謀総長
最高戦争指導会議には、陸相として出席
■嶋田繁太郎(しまだしげたろう)(海相)
■佐藤賢了(陸軍省軍務局長)
東条体制下で、何の成算もないのに「戦争完遂」をうたっていた。
■岡敬純(おかたかすみ)(海軍省軍務局長)
東条体制下で、何の成算もないのに「戦争完遂」をうたっていた。
■福留繁(軍令部作戦部長)
6.特攻・玉砕
■大西滝治郎(おおにしたきじろう)(第一航空艦隊司令長官)
特攻の方針会議で、「第一線将兵の殉国、犠牲の至誠にに訴えて、体当たり攻撃を敢行するほかに良策はない」と発言。
「特攻を行って、フィリピンを最後の戦いとしたい」と言い残し、マニラに赴任。第一神風特別攻撃隊を編成('44/10月)。フィリピン決戦の航空特攻による戦死者は約700人。敗北を喫したにもかかわらず、大本営陸海軍部は「陸海軍全機特攻化」を決定した。
■中沢佑(なかざわたすく)(軍令部作戦部長)
特攻の方針会議に出席
■黒島亀人(くろしまかめと)(軍令部第二部長)
特攻攻撃の1年前('43/8月)、海軍首脳に航空特攻の必要性を強調。
■牟田口廉也(むたぐちれんや)(陸軍第十五軍司令官)
部下の反論に耳を傾けず、執拗に作戦の実施を迫った。
「増援せず、撤退は認めず、降伏も許さない」無責任と人命軽視の継戦の象徴のインパール作戦('44/3月)では、10万人中 7万2500人が死傷し、「第一線は撃つに弾なく、今や豪雨と泥ねいの中に、傷病と飢餓のために戦闘力を失うに至れり。軍と牟田口の無能の為なり」と、山内正文・第十五師団長が電文を発する玉砕戦をすすめた。
7.本土決戦
■小磯国昭(こいそくにあき)(首相)
力量不足が指摘されていたが、終戦への指導力は発揮できず、「一億総武装」を唱え、多くの将兵の死を生み、沖縄戦の道まで用意して'45年4月退陣
■及川古志郎(おいかわこしろう)(軍令部総長)
神風特攻隊や「大和」特攻を承認
■梅津美治郎(うめづよしじろう)(参謀総長)
'45年8月9日のポツダム宣言受諾に関する御前会議で、「必勝を期する確算はないが、必ず敗れるとも断定できぬ」と本土決戦への決意を述べた。
■豊田副武(とよだそえむ)(軍令部総長)
同 上
■阿南惟幾(あなんこれちか)(陸相)
「この際は宜しく死中に活を求むる気迫を以て、本土決戦に邁進するを適当と信ずる」と説いた。
8.原爆・ソ連参戦
■梅津美治郎(うめづよしじろう)(参謀総長)
ポツダム宣言の受諾に反発。本土決戦にソ連の参戦を外交力で防ぐよう要請。
ソ連は、日ソ中立条約の不延長を通告していた。
■豊田副武(とよだそえむ)(軍令部総長)
同 上
■阿南惟幾(あなんこれちか)(陸相)
早期和平に傾きつつあったとも考えられるが、具体的な行動に出なかった。
■鈴木貫太郎(首相)
'45年4月に内閣発足したが、指導力に疑問符がつき早期和平派である東郷外相や米内海相に腹の内をみせることなく、戦争指導大綱で戦争継続を決定するなどした。
ポツダム宣言の対応では、宣言への意思表示はしないと会議で決めたが、軍の圧力もあり記者会見で「黙殺するのみである」と述べてしまい、この発言が、原爆投下、ソ連参戦の口実に使われた。
■東郷茂徳(とうごうしげのり)(外相)
早期和平派だったが、仮想敵国であり、対日参戦を伺っているソ連に和平仲介を頼むという「愚策」を採った。
しかも、ソ連の回答を待ち貴重な1ヶ月を浪費し、ポツダム宣言の対応が遅れ、2発の原爆投下とソ連の参戦を招いた。
死んだ子の歳を数えるような、たらればも含まれる話ですが、今の北朝鮮や、中国と重ね合わせて考えさせられました。
戦犯を裁いた裁判の話、戦犯との合祀を嫌う遺族など々、歴史を見直して考える機会になりました。
15日に、続編が掲載されるとのことで、休み中でもありゆっくり読んでみたいと思っています。
【追記】
東京裁判で、A級戦犯とされていて、責任の重い人物として登場してこなかった、以下の人たちがいます。
木村兵太郎 絞首刑
松井石根 絞首刑
荒木貞夫 終身禁錮刑
畑俊六 終身禁錮刑
平沼騏一郎 終身禁錮刑
星野直樹 終身禁錮刑
賀屋興宣 終身禁錮刑
南次郎 終身禁錮刑
重光葵 禁錮7年
大川周明 精神障害・免訴
☆極東国際軍事(東京)裁判☆
東京裁判、A級戦犯25被告に有罪判決 / クリック 20世紀
ウィキペディア(Wikipedia)A級戦犯
↓ よろしかったら、お願いします。
EEZ
読売新聞では、「大東亜戦争」「太平洋戦争」「15年戦争」「アジア・太平洋戦争」「第二次世界大戦」「あの戦争」「先の大戦」といった呼称があるのを、「昭和戦争」と呼称することとしたそうです。
昭和戦争の出発点を「満州事変」とし、「原爆・ソ連参戦」までの間を、8つに分けて、責任の重い人物を挙げ、解説と異を唱えた人も書いてあります。
1.満州事変
■石原莞爾(いしはらかんじ)(関東軍参謀)
満州事変を引き起こした首謀者
日米両国が東西両文明の盟主として、戦争で世界一を争う世界最終戦論者
全支那を利用すれば、20年でも30年でも戦争を継続できると、陸軍大学出身のエリート将校の集まりの「木曜会」で発言。
■板垣征四郎(いたがきせいしろう)(関東軍参謀)
満州事変を引き起こした首謀者
守備範囲を超えて吉林省へ進撃するとき、反対する本庄繁関東軍司令官を執拗に説得。
■土肥原賢二(どひはらけんじ)(奉天特務機関長)
奉天占領時の臨時市長
満州国元首に溥儀を担ぎ出した
■橋本欣五郎(はしもときんごろう)(参謀本部第二部ロシア班長)
青年将校を集めて「桜会」を結成。「三月事件」「十月事件」の二つのクーデター未遂事件を起こした。後の五・一五事件、二・二六事件など頻発するテロ、クーデター事件のさきがけをなした。
時の首相、若槻礼次郎は、現地軍の暴走を抑止できず追認してしまうのでした。
犬養毅首相が五・一五事件で暗殺された後、斎藤実内閣で満州国が承認されましたが、国際連盟でリットン調査報告書に基づく勧告が採択されると、松岡洋右代表は脱退を通告して退場したのでした。
満州事変 - Wikipedia
三月事件 - Wikipedia
十月事件 - Wikipedia
2.日中戦争
■近衛文麿(このえふみまろ)(首相)
濾溝橋事件の4日後の1937年 7月11日に、現地停戦協定が成立し、局地的には解決に向かっていたが、同じ日に華北への派兵声明を発表し、軍事的なエスカレーションに火をつけて、その後の重大局面でも指導力を発揮せず、戦争を日中間の全面戦争へ発展させてしまった。
蒋介石との頂上会談ほか、和平を模索したこともあるが、陸軍などの反対に遭うと腰砕けになった。
■広田弘毅(ひろたこうき)(首相、外相)
軍部大臣現役武官制の復活、南方進出を定めた「国策の基準」、日独防協定の調印など、禍根を残す決定をした。
■土肥原賢二(どひはらけんじ)(奉天特務機関長)
日中が全面戦争に入る道を用意した華北分離工作を担った中心
河北、チャハル両省から国民党機関を排除し「き東防共自治委員会(政府)」という傀儡自治政府をつくった。
■杉山元(すぎやまはじめ)(陸相)
広田外相、米内海相とともに国民政府との和平交渉の打ち切りを主張
戦争拡大派で、首都・南京陥落後、講和条件をつり上げ、和平のチャンスをつぶした。
■武藤章(むとうあきら)(参謀本部作戦課長)
当初、陸軍の中枢が拡大派と不拡大派に割れ、石原参謀本部作戦部長が不拡大方針をとったが、意向に逆らい田中新一陸軍省軍事課長と連係して、積極的に派兵を推し進めた。
3.三国同盟・南進
■近衛文麿(このえふみまろ)(首相)
三国同盟、南部仏印進駐を国策として最終決定し、対米戦争へと誘引した。
■松岡洋右(まつおかようすけ)(外相)
米国の対日圧迫を「誤断」し自ら隘路にはまりこんだ過ちの第一要因である、対米軍事同盟の日独伊三国同盟の締結(1940年9月)を推進し、ソ連を加えた「四国協商」により米国に譲歩を迫ろうとした。
しかも締結時にドイツは対ソ戦を模索しており独ソ開戦('41年6月)で構想は崩れた。
■大島浩(おおしまひろし)(駐ドイツ大使)
独ソ開戦時に、ドイツ勝利を盲信し、偏ったドイツ有利の情勢判断を流し続けた。このため、松岡の構想が崩れたとき、三国同盟を破棄して、対米関係改善に転じる道をふさいだ。
■白鳥敏夫(しらとりとしお)(駐イタリア大使)
「革新外交」を唱道し、親独・反米姿勢のために冷静な国際情勢判断を欠き、外交路線を謝らせた。
■永野修身(ながのおさみ)(軍令部総長)
南部仏印進駐を主導
米国が何度も警告を発し、野村吉三郎駐米大使が石油禁輸の可能性を打電していたが、英軍基地のある英領マレーを攻略し、南部仏印に基地を設け、蘭印の石油を奪取するとし、「対英米」戦争に向かわせた。
■石川信吾(いしかわしんご)(海軍省軍務局第二課長)
親独・反米傾向の海軍中堅幕僚のリーダーで、永野らに南部仏印進駐の断行を迫る意見書を起案した。
また、対米開戦の判断で重要な資料となる船舶損耗量など物的国力判断でも、米国の国力を過小評価した。
4.日米開戦
日本の国力で対米戦を戦えるかの冷静な判断力を失ったまま、どうして日米戦に突入したのか。
■東条英機((とうじょうひでき)(首相兼陸相)
米国との開戦回避の交渉努力をした第2次近衛内閣に、和平条件の中国からの撤兵を認めず猛烈な抵抗をした。
後継首相となり、天皇の意思として「避戦」にむかうも任務をはたせなかった。
開戦の主たる責任は、天皇を輔弼する立場にあった首相の東条はじめ、外相の東郷茂徳、蔵相の加屋興宣ら内閣の閣僚に着せられるが、東郷、加屋は閣内で避戦を強く主張していた。
■杉山元(すぎやまはじめ)(参謀総長)
陸軍で主戦論を説いた
■永野修身(ながのおさみ)(軍令部総長)
海軍で主戦論を説いた
■嶋田繁太郎(しまだしげたろう)(海相)
対米戦主戦論者に引きずられ、確たる信念を示さなかった。
■岡敬純(おかたかすみ)(海軍省軍務局長)
陸軍(武藤軍務局長)が出した、海軍は戦争を欲せずと表明すれば陸軍も従うとの提案を蹴った。避戦のチャンスをつぶした。
■田中新一(たなかしんいち)(参謀本部作戦部長)
陸軍で主戦論を説いた
■鈴木貞一(すずきていいち)(企画院総裁)
「蘭印の石油産地を占領しても、破壊されるので、石油の入手は困難」と近衛内閣当時報告していたが、開戦直前の国力判断では、「辛うじて自給可能」と前言を覆し、開戦した方が「国力の保持増進上有利なりと確信する」と主張して、開戦を後押しした。
■木戸幸一(きどこういち)(内大臣)
近衛の後継首相に東条を推した。
東条に天皇の意思として、開戦方針の白紙還元を伝えたが、東条は任務を果たせず、東条の首相推薦は誤算であった。
5.戦争継続
無謀な作戦を継続した。なぜ、戦局の転換を見過ごしてしまったのか。
■東条英機((とうじょうひでき)(首相兼陸相)
'44年2月、健軍以来のルールを破って参謀総長を兼務し、嶋田繁太郎海相にも軍令部総長を兼ねさせた。
ミッドウェー海戦以後制海・制空権を失った日本軍はもはや戦争を継続することが困難であったが、無視継続した。
■小磯国昭(こいそくにあき)(首相)
戦争指導班が「今後帝国は作戦的に大勢挽回の目途なく、逐次じり貧に陥るべきをもって、速やかに戦争終末を企図すべき」と結論づけ、東条に変わり登場したが、戦争終結の好機を生かせず、「一撃講和論」を唱え捷号作戦とその後の本土決戦を決意した。
小磯が新設した最高戦争指導会議では、「戦争完遂」「重大戦局を克服突破」といった勇ましい言葉ばかりが飛び交っていた。
'44年10月、フィリピン・レイテ島での陸海戦で大敗を喫し、海空戦力の大半を失ったが、大本営陸海軍部は沖縄と本土での最終決戦を決意し、硫黄島の玉砕、沖縄戦の悲劇を回避する道を閉ざした。
■永野修身(ながのおさみ)(軍令部総長)
東条体制下で、何の成算もないのに「戦争完遂」をうたっていた。
■杉山元(すぎやまはじめ)(参謀総長)
日本軍は真珠湾の勝利におごり、米軍の本格的反攻次期の判断を誤ったまま、ガダルカナル島奪還作戦に突入し、杉山元参謀総長は兵力の逐次投入という愚をおかした。
日米開戦の見通しで「南洋方面だけは3ヶ月くらいでかたづけるつもり」と天皇に回答。
成算のないなかを「戦争完遂」をうたった東条体制の参謀総長
最高戦争指導会議には、陸相として出席
■嶋田繁太郎(しまだしげたろう)(海相)
■佐藤賢了(陸軍省軍務局長)
東条体制下で、何の成算もないのに「戦争完遂」をうたっていた。
■岡敬純(おかたかすみ)(海軍省軍務局長)
東条体制下で、何の成算もないのに「戦争完遂」をうたっていた。
■福留繁(軍令部作戦部長)
6.特攻・玉砕
■大西滝治郎(おおにしたきじろう)(第一航空艦隊司令長官)
特攻の方針会議で、「第一線将兵の殉国、犠牲の至誠にに訴えて、体当たり攻撃を敢行するほかに良策はない」と発言。
「特攻を行って、フィリピンを最後の戦いとしたい」と言い残し、マニラに赴任。第一神風特別攻撃隊を編成('44/10月)。フィリピン決戦の航空特攻による戦死者は約700人。敗北を喫したにもかかわらず、大本営陸海軍部は「陸海軍全機特攻化」を決定した。
■中沢佑(なかざわたすく)(軍令部作戦部長)
特攻の方針会議に出席
■黒島亀人(くろしまかめと)(軍令部第二部長)
特攻攻撃の1年前('43/8月)、海軍首脳に航空特攻の必要性を強調。
■牟田口廉也(むたぐちれんや)(陸軍第十五軍司令官)
部下の反論に耳を傾けず、執拗に作戦の実施を迫った。
「増援せず、撤退は認めず、降伏も許さない」無責任と人命軽視の継戦の象徴のインパール作戦('44/3月)では、10万人中 7万2500人が死傷し、「第一線は撃つに弾なく、今や豪雨と泥ねいの中に、傷病と飢餓のために戦闘力を失うに至れり。軍と牟田口の無能の為なり」と、山内正文・第十五師団長が電文を発する玉砕戦をすすめた。
7.本土決戦
■小磯国昭(こいそくにあき)(首相)
力量不足が指摘されていたが、終戦への指導力は発揮できず、「一億総武装」を唱え、多くの将兵の死を生み、沖縄戦の道まで用意して'45年4月退陣
■及川古志郎(おいかわこしろう)(軍令部総長)
神風特攻隊や「大和」特攻を承認
■梅津美治郎(うめづよしじろう)(参謀総長)
'45年8月9日のポツダム宣言受諾に関する御前会議で、「必勝を期する確算はないが、必ず敗れるとも断定できぬ」と本土決戦への決意を述べた。
■豊田副武(とよだそえむ)(軍令部総長)
同 上
■阿南惟幾(あなんこれちか)(陸相)
「この際は宜しく死中に活を求むる気迫を以て、本土決戦に邁進するを適当と信ずる」と説いた。
8.原爆・ソ連参戦
■梅津美治郎(うめづよしじろう)(参謀総長)
ポツダム宣言の受諾に反発。本土決戦にソ連の参戦を外交力で防ぐよう要請。
ソ連は、日ソ中立条約の不延長を通告していた。
■豊田副武(とよだそえむ)(軍令部総長)
同 上
■阿南惟幾(あなんこれちか)(陸相)
早期和平に傾きつつあったとも考えられるが、具体的な行動に出なかった。
■鈴木貫太郎(首相)
'45年4月に内閣発足したが、指導力に疑問符がつき早期和平派である東郷外相や米内海相に腹の内をみせることなく、戦争指導大綱で戦争継続を決定するなどした。
ポツダム宣言の対応では、宣言への意思表示はしないと会議で決めたが、軍の圧力もあり記者会見で「黙殺するのみである」と述べてしまい、この発言が、原爆投下、ソ連参戦の口実に使われた。
■東郷茂徳(とうごうしげのり)(外相)
早期和平派だったが、仮想敵国であり、対日参戦を伺っているソ連に和平仲介を頼むという「愚策」を採った。
しかも、ソ連の回答を待ち貴重な1ヶ月を浪費し、ポツダム宣言の対応が遅れ、2発の原爆投下とソ連の参戦を招いた。
死んだ子の歳を数えるような、たらればも含まれる話ですが、今の北朝鮮や、中国と重ね合わせて考えさせられました。
戦犯を裁いた裁判の話、戦犯との合祀を嫌う遺族など々、歴史を見直して考える機会になりました。
15日に、続編が掲載されるとのことで、休み中でもありゆっくり読んでみたいと思っています。
【追記】
東京裁判で、A級戦犯とされていて、責任の重い人物として登場してこなかった、以下の人たちがいます。
木村兵太郎 絞首刑
松井石根 絞首刑
荒木貞夫 終身禁錮刑
畑俊六 終身禁錮刑
平沼騏一郎 終身禁錮刑
星野直樹 終身禁錮刑
賀屋興宣 終身禁錮刑
南次郎 終身禁錮刑
重光葵 禁錮7年
大川周明 精神障害・免訴
☆極東国際軍事(東京)裁判☆
東京裁判、A級戦犯25被告に有罪判決 / クリック 20世紀
ウィキペディア(Wikipedia)A級戦犯
↓ よろしかったら、お願いします。
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ドイツーヒトラー体制
中国ー蒋介石体制