
真珠湾攻撃による日米開戦から70年が経過したのですね。
様々な報道がなされていますが、知らなかった事実や逸話や、70年を経て変わっていく状況がありました。
時間の経過がもたらす情報や、人々の変化に感動をいただきました。
◆時の流れで産まれた変化
asahi.com(朝日新聞社):真珠湾で70周年記念式典 「生存者協会」今年で解散 - 社会
真珠湾攻撃で生き残った米国の退役軍人らによる、全米の「真珠湾生存者協会」は今年いっぱいで解散することを式典で表明したのだそうです。式典共催者の真珠湾記念館も、これまでは米国の被害状況のみの展示であったものを、日本側の当時や戦争に至る状況についても展示をするよう、模様替えをすることにしたのだそうです。
◆新たに生まれこれからも続けようと誓い合った友情
◇記念館で鎮魂、死ぬまで続けた父ら
【ホノルル(米ハワイ州)堀山明子】亡き父が20年前に築いた元米兵との友情の物語を語り継ぎたい--。旧日本軍によるハワイ真珠湾攻撃から70年にあたり、艦上爆撃機のパイロットとして攻撃に参加した阿部善次さん=07年に90歳で死去=の長女・進(しん)直美さん(67)=茨城県古河市=が記念式典会場近くのカメハメハ小学校で特別授業の講師を務めた。進行役は当時6歳だった絵本作家のドリンダ・ニコルソンさん(76)。日米和解に心を砕いた退役軍人の他界が相次ぐ中、娘世代が「絆」を受け継いでいる。
「昔は敵だった2人が友達になれたのは50年の記念式典でした」--。ニコルソンさんは6日、約100人の子供たちを前に阿部さんと元米海兵隊員、リチャード・フィスクさん=04年に82歳で死去=の友情物語を披露した。開戦60年に合わせてニコルソンさんが阿部さんから聞き取り、絵本にした内容だ。
阿部さんは50年式典で知り合った元ラッパ手のフィスクさんに手紙を書き、「毎月お金を送るので、2輪のバラを買ってアリゾナ記念館に届け、ラッパを吹いてほしい」とつづった。記念館は真珠湾攻撃で撃沈された米戦艦アリゾナの上に建設された追悼施設。戦艦には1177人の米兵が乗り組んでいた。フィスクさんは92年から亡くなるまで約束を守り続け、鎮魂と友情のラッパを140回以上吹いた。
進さんは開戦65年の06年、阿部さんの自伝を英訳し、米国で出版した。「父は戦争体験を語らなかったから、私が真珠湾攻撃のことを知ったのは本を出版した時でした」と子供たちに説明する。翻訳作業を通じて「米国人の友人が多い父を理解できるようになりました」と胸中を明かした。
日米和解を後押ししてきた2人。だが、共同作業は初めてだ。元米兵と友情を温めてきた他の元日本兵も高齢や健康上の問題で70年式典に出席できないと進さんが知り、ニコルソンさんの呼びかけに応じる形で、父の遺志をハワイの子供に伝えようと海を渡った。
「攻撃の時には何をしていたの?」との質問に進さんは「まだ生まれていませんでした」。子供たちのサイン攻めを受けた後、ニコルソンさんが語った。「私一人の授業とは子供たちの反応が段違い。毎年、コンビで特別授業を開きたい」。「約束よ。体が動くまで続けるわ」と進さん。父親世代の和解のバトンを次世代につなぐ新たな友情物語が始まった。
艦上爆撃機のパイロットとして攻撃に参加した阿部さんが、50年の記念式典で知り合った米軍の元ラッパ手のフィスクさんに手紙を出して、「毎月お金を送るので、2輪のバラを買ってアリゾナ記念館に届け、ラッパを吹いてほしい」と依頼。フィスクさんは92年から亡くなるまで約束を守り続け、鎮魂と友情のラッパを140回以上吹着続けたのです。
そして、双方の娘さんが協力して、記念式典会場近くのカメハメハ小学校で特別授業を開いた。そして、今後も体が動くまで続けようと、新たな友情がスタートしたのだそうです。
◆時間の経過によって新たに出てきた情報。
【真珠湾攻撃70年】「ルーズベルトは狂気の男」 フーバー元大統領が批判+(1/2ページ) - MSN産経ニュース
【真珠湾攻撃70年】フーバー元米大統領の実績再評価を+(1/2ページ) - MSN産経ニュース
ルーズベルト大統領が、日本が開戦するように仕組んだとする陰謀説があることは諸兄がご承知の通りですが、米大統領経験者が“陰謀説”に言及していたことが判明したのは初めてなのだそうですね。
そして戦後、フーバー元大統領が訪日した際、マッカーサーも「ルーズベルトは戦争回避の努力をすべきだった」と語り、フーバー元大統領は、マッカーサーに食糧支援の必要性を説いていたのだとか。
一方で、いつまでも日本のスネをかじり続ける韓国。戦後賠償はいらないと言いながら、ODAや細菌爆弾等の化学兵器処理の名目につけこんでむしりとる中国といった国々は、時を経てもなにも変化がありませんね。

↓よろしかったら、お願いします。



![]() |
![]() |