実のところ、「これまで 『私』 だと思っていたものは、ほんとうの 『私』 ではない」 という話は、決して目新しいものではありません。
ムージ師の他の動画でもすでに明言されていますし、本やブログなどでも伝え聞いていたことで、何よりも自分自身 「ハートとマインドの交代」 などとさんざん語ってきたことです。
ただ、自分ではある程度体験したつもりでいたそれらは 実はまだ認識の範囲内で、実際の体験はまったくの別物であった事実を突きつけられて 愕然としたわけです
こんなことを書いてたときもあったのね。。。。。「自分の本質が “ある” で これまで自分と思ってきたものがアバターであると 抵抗なくすっきり認められるようになった」 なんて無邪氣に書いてて、たしかに当時の正直な氣持ちではあるけれど、実際の体験がこんなことになろうとは 思いもよらなかったねぇ (- -;)
不安や恐れの感覚はいつもと同じなのに、その主たる 「私」 がどこにも見当たらない・・・・鏡に映った自分の首から上が忽然と消えていたとでもいうような衝撃でしたが、動画はこれで終わりではありません。
「[後編] 目覚めの瞬間」 で、質問者の女性もやはり 恐れている者を見つけ出せないようです。
ただし、ある程度の感覚的ざわめきは残っている。。。。これは感覚フォーカスのときと同じような感じだろうな。
“単に感覚に過ぎないものを、マインドは恐れている者であるかのように感じさせる、これが最初の確認です。
今度は2つ目の確認、何がこれを確認していますか?”
え、「何が」?
“身体の中に感覚だけがある そして、その感覚に ‘恐れている者, とラベルがつけられているんだね”
“これまでの生きてきた過程において、これを恐れているのが “恐れている者” と暗に教えられているんだ
でも、厳密に内観、またはよく調べてみると、恐れている者はどこにも見つからないと”
そういうことか。
そんなふうに思い込まされていたんだ。
“何がこの発見をしていますか、今?”
新しい問いを出されても、衝撃にくらくらする頭をすぐには切り替えられないのですが、動画の女性はすっと答えます。
“あぁ~、観ているモノ。ずっと観ているモノ”
とすかさず、
“よし、次は、この観ているモノを見つけることが出来るかい?”
とムージ師。
このとき貴秋が 「観ているモノ」 だと思っていた その 「観ている」 は、今思うと 師の指し示す 「観ている」 とは少しずれていたのですが、ただ 観ている者 = 在る だということは、師の他の動画ですでに知識として得ています。
「在る」 はすでに自分の中に実感がありますから、そこに意識をフォーカス。
これまでは 捉えどころがないものだと決めつけて ハナから観察しようなんて思ってもいませんでしたから、こんなふうにしげしげと探りを入れるのは初めてのことです。
ない、何もない。
いや、「在る」 はたしかにあるんですが・・・・・って、言葉にするとわけがわからないですね
「在る」 、その存在はたしかに感じます。
ただ、それには ここからここまでというような境界がいっさいない。
決まった位置や場所もない。
形、色、大きさ、重さといった質感量感もいっさいない。
ただ 「在る」 と感じとれるだけ。
五感で捉えられるようなものじゃない。
動画の女性が言うように、「それはただのそれ」 とでもいうしかありません。
言葉の及ばない世界とは、まさにこういうものなのですね。
師の問いかけは、まだ続きます。