Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

それでもボクはやってない

2007-02-13 | 日本映画(さ行)
★★★★ 2007年/日本 監督/周防正行
<新京極シネラリーベにて鑑賞>

「私は、なぜ映画が好きなのかと考えてみる」


正直に言っていいですか?私はこの映画、あまり楽しめなかった。「映画を楽しむ」ってことは、私にとって何なのか、自問自答したくなるような映画でした。

「楽しむ」と言っても、笑ったり、喜んだりすることだけを指すのではもちろんなく、つらかったり、悲しかったりしてもそれは「映画を楽しんだ」ことになるのです。ところが、この作品はそうは感じなかった。まさにこの映画は日本の裁判制度の不備を広くいろんな人に知らしめたい、という周防監督の並々ならぬ思いが詰まった映画です。それは役所広司自身も劇中語っています。痴漢冤罪事件には日本の司法制度が持つおかしな点が全て詰まっていると。だから、周防監督は徹底的にリアリズムを追求した作品を仕上げた。それは、重々承知しているのです。

その徹底したリアリズムを出すために、この映画には情緒的な演出が一切排除されている。そこが私が入り込めなかった一番の理由。例えば無実の罪で3週間も留置されて徹平がようやく外に出てきた時、彼は何だかんだを力を尽くしてくれた友人(山本耕史)にありがとうのひと言をかけることもない。それが、すごくひっかかってしまった。何も「おまえのおかげで俺は助かったよ。なんていい友人を俺は持ったんだろう」と泣きながら加瀬亮に言って欲しいわけじゃない。そういう演歌的世界って、私は好きじゃないから。

心の動き、なんです。そこが何だか物足りないって一度思ってしまうと、淡々と続く裁判制度の歪みばかりが重くのしかかってくる。しかも、何だかみんなすごく「かたくな」な人物ばかりだなと思うのです。どの人物も裁判を通じてでしか、そのキャラクターが伝わらない。勝手な調書を作り上げる刑事も、嫌々ながらも裁判を引き受ける新米弁護士も、この裁判に関わることで様々な心の揺れがあるはず。だけども、その心の向こう側を感じられない。

おそらく、周防監督は敢えてその心の揺れを排除している。だから、観客はそのまま受け取るしかない。そこで、私はなぜ映画が好きなんだろうという自問自答に戻ってくるわけです。あまりにも絶賛レビューが多いので、私が鈍感なのかなあと思ったりもして。日本の裁判ってヘンだ!ってのは、よーくわかったんですが、私の心は揺れなかった…。

いい人、悪い人ということは抜きにして、裁判官役の二人が光ってましたね。この2人の演技には、向こう側を感じました。特に小日向文世。裁判官が彼に変わったことが、この映画で最も大きなうねりを出していた。公判が始まってからの描写があまりにも静かに淡々と進んでいたのでなおさらです。

日本の裁判制度がいかにおかしなものか、それ1点のみを痛烈に伝えたかった。ええ、周防監督、それはとてもよくわかりました。心して受け止めました。でも、私はもっと心を揺さぶられたかった。それは、次回作にお預け、ということなんですね。