Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

新宿マッド

2008-02-05 | 日本映画(さ行)
★★★★1970年/日本 監督/若松孝二

「新宿の“中"と“外"」


私が映画ファンになったのは、学生時代「大毎地下劇場」という御堂筋に面した小さな地下劇場で、日本やヨーロッパの古い作品をたくさん見たのがきっかけだ。今は子供も小学生になりハリウッド映画も見るけれど、個人的には60年代後半から70年代のATG作品が大好きだ。

モノクロームのATG作品を見て強く感じるのは、私もこの時代の息吹をリアルに感じてみたかった、というストレートな願望だ。この時代をリアルに生きた人が羨ましい。体制への反抗、あふれ出る創作意欲、表現することが生きることと同じ価値を持っていた時代が放つ圧倒的なエネルギー。それを、この自分の肌で感じてみたかった。

本作「新宿マッド」は、新宿で劇団員をしていて殺された男の父親が、息子が殺された理由を知りたいと、九州の田舎町から上京し、新宿をさすらう物語である。前衛的な作品も多いATG作品の中では、この「新宿マッド」は比較的わかりやすい物語だと思う。

息子の父親は田舎で郵便配達夫をしている。地方都市の郵便配達夫というのは、おそらく「自分の意思もなく体制に呑み込まれてしまった人間」の象徴ではないか、という気がする。なぜ、息子は殺されなければならなかったのか、息子の友人を訪ねまわり、新宿の街を徘徊し、新宿の狂気を目の当たりにするに従い、真面目に生きることだけが取り柄のような田舎の中年男の価値観が崩れてゆく。

すぐ誰とでも寝る女、麻薬に溺れ働かない男たち。新宿の人々は、真面目な田舎者の父親を嘲笑する。しかし、彼らが繰り返し叫ぶ観念的な言葉は、最終的には田舎者の父親の生きた言葉の前に屈する。映画の冒頭に出てくる新宿の街で横たわる若者たちの死体、そして新宿マッドなんてカリスマはいない、とする結末を見ても、新宿的なる世界の終焉を見事に切り取った作品と言えるだろう。

しかしながら、目の前で繰り広げられる退廃的でけだるい新宿の街の描写は、私を惹きつけて離さない。およそ、この時代に生きる人々は、新宿の“中にいる者"と“外にいる者"。その二通りしかいなかったのではないかと思わせる。「あいつは、この街を裏切った。新宿を売ってしまったから殺された。」父親が息子の友人から聞き出したこのセリフがそれを物語っているように感じるのだ。