Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

あの夏、いちばん静かな海

2008-02-27 | 日本映画(あ行)
★★★★★ 1991年/日本 監督/北野武
「優しさと、愛と」


「退屈な映画」とは、何をもって退屈と感じるのだろう。私は何度もこの作品を見ているが、このあまりにセリフの少ない、あまりに静かな物語を、退屈だと思ったことは一度もない。主人公が泣き叫んだり、爆弾がひっきりなしに落ちたりしても、退屈だと思う映画はいくらでもあるのに。

主人公二人のバックボーンについて、映画は一切を語らない。しかも、二人は言葉が不自由だからセリフがない。我々は見ながらそれらを想像するしかない。しかし、この作品には、想像しなければならないことの「もどかしさ」がない。そこが退屈だとは思わない大きなポイントなのだと思う。なぜ、わからないことがもどかしくないのか。それは、セリフではなく映像が我々に語りかけているからだ。全てのシーンが、私たちに語りかけている。それに耳を傾け、想像することの何と楽しいこと。

例えば、主人公の彼女がサーフボードの値引きを頼んでいるシーン。カメラは主人公の位置にあり、彼女はガラス越し。聾唖の彼女が一体どうやって値引きを頼むのか。その様子もガラス越しゆえによくわからない。こんな些細なシーンでも、私は様々な想像が頭をよぎる。もしかして、彼女は耳が不自由でも、言葉はしゃべられるのかも知れない、というストーリー上のイマジネーション。

そして、北野監督は彼らが聾唖であるという事実をことさら映像で強調したくないのかも知れない。または、主人公の彼女を思いやるハラハラした気持ちを観客に同化させるためにこのようにしたのかも知れない、という演出上のイマジネーション。北野作品の場合、「このシーンはこういうことかしらね」と自分なりの想像や感じ方を誰かと語りたいシーンが本当に多い。本作は、セリフがとても少ないので余計なのだが、挙げ始めるときりがないのだ。

サーフボードという小道具の使い方で二人の思いや距離感を表現するやり方も実に巧い。前と後ろをふたりで持って堤防を歩く様子で、心の動きが手に取るようにわかる。いつも、ボードのお尻を持って、彼の後を控え目に歩いていた彼女。なのに、主人公の死後の回想シーンでは、彼女がサーフボードの前を持って、大手を振って浜辺を行進している様子が挿入される。もう、これには、参りました。涙腺弾けちゃうし。

この幸せだったあの頃の一コマが次々と挿入されるラストシークエンスは、見せないことを信条とする北野作品にしては珍しいと言えるほどのわかりやすさ。しかし、やはり「愛」を描くんですもの。最後にこれくらいは盛り上げてもらわないと。「愛」を真正面から捉えた北野作品は、今のところこれしかなく、何とかもう1本作ってくれないかな、と願うばかり。

そして、本作では「思いやり」や「優しさ」と言ったものが実にストレートに表現されている。(ストレートと言っても北野武なんだからハリウッドばりのストレートさじゃないですよ、もちろん)清掃車の相棒の河原さぶとサーフショップの店長。この二人が示すじんわりとした優しさの表現を見れば、北野武なる人物が死と暴力の表現にがんじがらめになっていないことは明らか。愛はもちろんのこと、難病や介護などヒューマンなテーマだってきっと面白い作品が撮れそうな気がする。まあ、武のことだから、そんなストレートな題材選びはしないんだろうけど。