Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

新宿泥棒日記

2008-02-06 | 日本映画(さ行)
★★★★ 1969年/日本 監督/大島渚

「盗まれる言葉たち」


これはとても詩的で実験的な作品。紀伊國屋書店でジュネの「泥棒日記」を万引きをした青年、横尾忠則が彼を捕まえた女性店員、横山リエと性をめぐる観念の世界へ逃避行に出る。そんな感じでしょうか。
本を盗むということは、言葉を盗むということ。故に、言葉の洪水のような作品でもある。言葉によって喚起される数々のイメージを頭に思い描きながら、新宿の街を泥棒気分で逃げ回るのだ。

性科学権威の高橋鉄によるカウンセリングシーンや佐藤慶や渡辺文雄がセックスについて大まじめに語り合うシーンなどのドキュメンタリー的なシーンと、様々な文学の一節を朗読するシーンや唐十郎率いる状況劇場の舞台などの観念的なシーン、それらが虚実ないまぜ、渾然一体となって進んでいく。

ひと言で言うと「映画は自由だ!」ってことかしら。物語とか、辻褄とか、わかる、わからないとか、そういうところから一切解放されて映像を紡ぐこともこれまた映画なり。わかるかと聞かれると全くわからんのですけど、面白いかと聞かれると間違いなく面白い。この面白さっていうのは、やっぱり作り手の「自由にやってやる」という意気込みがこっちに伝わってくるから。その鼻息が通じたのか、ラストは撮影中に出くわした新宿の本物の乱闘騒ぎの映像が入っており、当時の生々しい空気感が感じられる。

シーンとシーンの間に、時折文字のみの映像が差し込まれるのだが、冒頭は確か「パリ、午後二時」とかそんなんなのね。その中で「ウメ子は犯された」って文字がでかでかと出てくるシーンがあるんだけど、つい吹き出してしまった。犯されたことが可笑しいとか、そういう不謹慎なことではなく、そんなことわざわざ文字にするなよ、見てりゃわかるじゃんってこと。とことん性に対して大真面目に突進していく様子が何だかおかしいのだ。

それにしても、この時代の作品は大島渚だけでなく、女と言うのは、常に「犯される存在」だ。今で言うともちろんレイプということになるのだけど、この時代はやはり「犯される」という言葉が一番ぴったりくる。それは、征服するための行為というよりは、むしろ「聖なるものを穢すことで何かを乗り越える。そのための儀式」に感じられる。

それだけのリスクを冒さなければ、向こう側に行けない。手に入れたいものが見えない。そんな時代の鬱屈感を表現する一つの方法。それが女を犯すという描写ではないかと感じるのだ。このように言葉にすれば、女をコケにしたとんでもない表現方法に感じるかも知れないが、逆の視点で見れば、当時の女という概念はそれだけ聖なるものであり、乗り越えなければならない高みを示していたのかも知れない。

犯し、乗り越えていくためのシンボルとして女性が描かれることは、今やほとんどなくなってしまった。それは果たして、喜ぶべきことなのだろうか、それとも悲しむべきことなのだろうか。横山リエの妖しげな表情を見ながら、ふとそんなことを考えてしまった。