Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

2001年宇宙の旅

2011-01-07 | 外国映画(な行)
★★★★★ 1968年/アメリカ 監督/スタンリー・キューブリック
「映画館というあまりに魅惑的な空間」


<午前10時の映画祭:TOHOシネマズ二条にて観賞>

映画は始まれど、スクリーンは漆黒。2、3分は続いただろうか。今どきの映画なら、フィルムのトラブルだろうかと、後方の映写室を振り返る人もいるだろうが、この空間にはそんな観客はひとりもいない。そして、響き渡る不協和音と気味の悪い歌声。何かが起こるという不安と期待に思わず身をすくめてしまう。もう何度も見ている作品だというのに。いよいよ始まるんだという緊張感を全ての観客が共有していた。

原始人が空高く振り上げた骨が一瞬のうちに宇宙船に変わる。語り尽くされてきた名シーンをどれほどスクリーンで見たいと思い続けてきたことか。全ての観客が固唾を呑んでその瞬間を待ち受けていたようだった。優雅に宇宙を漂う真っ白な宇宙船。騒然と響く「ツァラツストラ」のメインテーマ。映画館で身震いすることって、あるんだね。

現在の映画を取り巻く技術を考えれば、類人猿が作り物のようで滑稽だとか、宇宙船がミニチュアのようでチープだなんてことが頭をかすめたこともある。しかし、それは我が家の小さなテレビで見ていたからだとはっきりした。スクリーンに浮かぶ宇宙船は、あまりに雄大かつ優美だ。明暗のコントラストにこだわったキューブリックは、宇宙空間は太陽の強い光が当たっているため、隅々までピントが合った映像でなければならないと、長時間露光での撮影を行う。結果、1秒の撮影に4時間をかけたのだとか。スクリーンで見るからこそのリアリティ。そして、スクリーンは、製作者の執念をも映し出すのかも知れないと思った。

そして、改めて迫りくる宇宙空間における圧倒的な孤独。宇宙服に身を包んだボーマンがACユニットを交換するため、宇宙空間にでてゆく。真っ暗な空間にポツンと白い点のように浮かぶボーマンの姿。それが恐ろしくて恐ろしくて溜まらない。彼を取り巻く底なしの宇宙。終わりのない空間に存在する、ちっぽけな人間。そして、HALの暴挙によって、その底なし沼に突き放たれる船員のプール。そのシークエンスは無音だ。無音だからこそ、凍り付くように恐ろしい。

スターゲイトに突入するシークエンスの恍惚感も例えようのないものだった。身体は椅子に縛り付けられてはいるが、私の脳は知りもしない、見たこともない宇宙の遙か彼方へと飛んでいる。それも、とてつもないスピードで。3Dメガネをかけて翼竜に乗るのも確かに快感だが、あちらが視神経の刺激による一時的なハイだとすると、こちらは脳髄をやられたかのごときディープなハイだ。思い出しては、もう一度快感に浸れる。

私はスクリーンで見る前に意を決して原作を読んだのだが(そこにはなぜHALが暴走したのか、きちんと理由が書かれている)、映画ではHALの暴走の解釈は100%観客に委ねられているのだった。つまり、多くの方がご指摘している通り、キューブリックはこの作品に彼なりの哲学的な解釈を与えようという意図などなく、ただひたすらに自分の作りたい映像をとことん追求したかっただけなのだと思う。それは間違いない。

しかし、絵にこだわっただけ、と言い切れないところがキューブリックの嫌らしいところで、彼は原作とは明らかに違う描写をところどころに施している。そして、それこそがキューブリックの仕掛けたトラップだと思う。例えば、ボーマンが自分の書いたスケッチをHALに見せるシーンやHALとチェスをして遊ぶシーン。これらは原作にはないのだが、明らかに人間とコンピュータの感情的な交流があるかのように観客は受け取ってしまう。

また、フロイド博士もボーマンも共にテレビ電話で誕生日を祝うシークエンスがあるのだがこちらも原作にはない。これらのシーンは「命の誕生」という事象を観客の頭の片隅にインプットさせ、それがボーマンのスターチャイルドとしての誕生につながる一方でHALが新たな生命体の誕生である、ということをも想起させる。もしかしたら、HALはこの旅で新たな生命として誕生するはずだったのだが、それに気づいたボーマンがHALを抹殺し、スターチャイルド、つまり新たな生命体となる資格を得ることに成功したのかも知れない、とまあ考え出したらきりがないのである。

いずれにしろ、原作を読んだら、めくるめく脳内解釈ごっこが終わってしまうかも知れない、という私の疑念は全く杞憂だった。映画館で映画を観るって、本当にすばらしい。