【わんちゃんの独り言】

毎日の生活の中で見たこと、聞いたこと、感じたこと、思いついたこと等々書き留めています
(コメント大歓迎デス・・・・・)

明鏡止水の花姿

2021-02-11 | 折々の花~お庭編~


『梅、咲きました』のパンフレットが新聞の折り込み広告に入ってました。

明鏡止水の花姿
いにしえの日本では、花と言えば早春を感じさせる『梅』でした。梅をテーマにした芸術や文学、伝説がたくさん残っているのもそのためでしょう。それだけ梅は、日本人に愛され身近な花であり、私たちはその優美で気品ある花姿に魅力を感じてきたと言えます。
冬の寒さをじっと耐え、時季がくれば可憐な花をひとつ、ふたつ・・・と静かに咲かせる姿は、『華麗』というより『清廉』で凛とした印象を与えます。
この花姿が、日本人の美意識や感性を揺さぶるのではないでしょうか。
花姿に負けない優美な香りと共に、今もなお私たちの心を魅了する梅の数々に今年も会いに行きましょう。けいはんな記念公園管理事務所・パンフレットより

どんな咲き具合かなっと行ってきました。
くるりんバス『アピタ・コーナン前』で降りて、テクテク、けいはんな公園芝生広場はこの寒い時季なのに、親子連れが楽し気に憩う姿が遠目に見えてました。


冬枯れの木は全部、桜の木、桜の頃のけいはんな記念公園こちら
 
けいはんな記念公園芝生広場でツグミ(左)とハクセキレイ(右)に出会いました。
 


水景園に向かう小川沿いの斜面に梅の木、白梅がふっくらと咲いてます。






水景園の入り口近くにも白梅の木が並んで居ました。



入り口の棚にちっちゃなお雛さまが飾ってありました。

可愛かったです。
「もっと、大きなのが観月楼の中に飾ってありますよ」っと、
スタッフさんがおっしゃってました。あの時の?こちら










えっ?『明鏡止水』って、どういう意味?
「明鏡」の由来
まず、「明鏡」に関するエピソードを紹介します。
古代中国には、共通の先生のもとで勉強する2人の生徒がいました。
1人は、子産(しさん)という人物です。宰相(さいしょう)の立場であった彼は、いつも自分の高い身分をひけらかしていました。
もう1人は、申徒嘉(しんとか)という人物です。彼は元犯罪者で、足切りの刑を受けたために片足がないのです。
子産は、自分よりも身分の低い申徒嘉と同席して勉強することを嫌がりました。
しかし、申徒嘉は「同じ先生に師事する以上は、自分と子産の関係は対等である」と考えていました。そこで、子産に対して「鏡が明らかであるのは、塵や曇りがないからだ。反対に、塵や曇りがついている鏡は明らかでない。」と言いました。
この言葉を易しく言い換えると、「まっさらな鏡は綺麗だが、余計なものが付着している鏡は汚い」という内容になります。申徒嘉は、「鏡についた塵や曇り」を子産の心ににたとえたのです。つまり、「外見や地位で人を見極めるのは、やましいことである」という指摘がこめられています。
このエピソードから、「邪念が一切なく、心が澄み渡っていること」を表す「明鏡(明らかな鏡)」という言葉がうまれたのです。
「止水」の由来
次に、「止水」に関するエピソードを紹介します。古代中国に、王駘(おうたい)という人物がいました。彼は、かつて足切りの刑にあったことがあるため、片足がありません。
通常、受刑を経験した人は、周囲から「身分の低い人」「いやしい人」とみなされてしまいます。しかし、王駘には大勢の弟子がいたのです。
これを知った孔子の弟子は、孔子に「なぜ王駘は多くの人に慕われるのでしょうか。」と問いました。すると、孔子は「人は、流水ではなく止水を鏡とする。だから、不動の心をもつ人物は周囲に安らぎを与えることができるのだ。」と答えました。
孔子の言葉を分かりやすく言い換えると、「流れが止まっている水は、人を引き付けて安らかな気持ちにさせる」ということです。このエピソードが由来となって、「止水」は「静かで穏やかな様子」を指すようになったのです。
このように、「明鏡」は、「一切の邪念がなく、澄み渡っている気持ち」を指し、「止水」は「静かで穏やかな状態」を指します。したがって、この2語が組み合わされた「明鏡止水」は、「一切の邪念がなく、穏やかで澄み渡った気持ちをもつこと」という意味なのです。