落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

へヴィー級でいこう

2006年02月04日 | movie
『単騎、千里を走る。』
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高倉健ラブ!!!!とにかくラブ!!!!健さんさいこおーーーー!!!!愛してます!!!!by張藝謀(チャン・イーモウ)。みたいな。
てゆーか観客も健さんファンが多いのか、異様に年齢層高し。普段中国映画とかあんまし観ない方々らしく、中華電影を見慣れたぐりからすると「えっ?こんなとこで?」なシーンでわりと皆さんウケてました。
しかし張藝謀はもうホンット、健さんが好きなんだね。観ててちょっと恥ずかしいくらいのリスぺクトっぷり。つーか健さんの登場シーン常にカメラ寄りすぎだし(爆)。もーがぶり寄りっす。張藝謀の作品て、風景と人物を配分よく組みあわせたクールな画面構成がオトナっぽくて好きなんだけど、今回違うです。はああ。
中国パートは張藝謀らしくてなかなかよかったです。あいかわらず素人役者の使い方が絶妙。片言の日本語しか喋れない現地ガイドの邱林(チュー・リン)や仮面劇の踊り手・李加民(リー・ジャーミン)なんかすっごいいい味出してます。本業も観光ガイドだった邱林はこれが契機となって俳優業に転向するそうだ(笑)。
それに反して日本パートはくどくて説明っぽくて全然イケてなかった(爆)。とくに健さんのナレはいらんかったよー。ちょーーーー説明!って感じで興醒めよ。

ストーリーが単純なわりに説明の多い映画なんだけど、いちばん肝心なところの語り方はさすが張藝謀、うまいです。じわじわと観客に感じさせておいて、最後に答えあわせみたいにタネ明かしがある。観たあとでスッキリした気分になれる。あざといけど、張藝謀のこういうあざとさには毎度「参ったなあ」と微笑んでしまう。そういうのってけっこうわるくない。
結局この話のメインは「人と人とがちゃんと向かいあうことの大切さ」だ。わかりあうこととか、協力しあうこととか、仲良くなるとか、そんなご大層なことではなくて、まずちゃんと向かいあわなくては何も始まらない。すべてがそこからスタートするべきなのだ。
そこのその部分はとてもよく描かれている。

この映画に出てくる中国人はみんな、健さんが胸襟を開いて正直になればなったぶんだけ親切にしてくれる。
それは彼が「遠い異国からきてくれた客人」であり「中国の伝統文化を知ろうとしている」からであり「病床の息子が中国人とした約束を果たそうとしている」事情があるからなのだが、理屈のうえでのギブ&テイク的な親切とはちがって、何か「中国人としてのプライド」に基づいた親切のようにも感じたし、常に‘面子’を重んじる中国人ゆえの行動原理のようにも感じた。
ぐりはそのへんのことは素人だけど、中国人の意識に詳しい方はどう思われるのか、聞いてみたいです。

にしても健さんへの愛・炸裂っぷりはちょっとどーにかならんかったもんですかね・・・つーか健さん映画ってみんなこんななの?アタシ『ブラックレイン』と『南極物語』しか観たことないんだよな・・・(爆)。

へヴィー級でいこう

2006年02月04日 | movie
『白バラの祈り─ゾフィー・ショル、最期の日々』
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サブタイが「最期の日々」となってるけど、ホントに最期の数日間だけのお話。
‘白バラ’とは第二次大戦下のミュンヘンで反ナチ活動に参加した学生グループのこと。活動期間は1942年から翌年にかけての半年余りで、メンバー6人全員が処刑されている。ゾフィー・ショルは当時21歳、紅一点の女子大生。43年に在籍中の大学で反ナチのビラをまいた容疑で逮捕され、5日後に文字通り「断頭台の露と消えた」少女である。
映画には彼女が問題のビラをつくった日のことと、逮捕されてから殺されるまでの6日間が描かれている。

たった6日間の物語であり、うち5日間のシーンは全てが取調室や留置場、裁判所などといった室内でのほぼ1対1の会話劇なので、内容がひどく濃い。台詞のないシーンがほとんどまったくない。
ときおり、それら狭い空間の窓から晴れた冬の空をじっと見上げるヒロインの姿が、まるでフェルメールの絵のように静かに挿入される。空は白バラの若者たちが叫んだ「自由」の象徴なのかもしれない。
それ以外のシーンはすべてが激しい台詞の応酬に終始している。結論はわかっている。ゾフィー(ユリア・イェンチ)も含めたメンバー全員は結局ろくな裁判も受けられずに殺されてしまった。その2年後にはドイツは無条件降伏しナチス政権は崩壊した。ヒロインたちは弱者ではあったが、負けはしなかった。そのことは時代が証明した。
だがその「勝利」を死ぬまで信じ続けることは、ふつうの人間にとって決して容易なことではない。でもゾフィーはごくふつうの女の子だったのだ。頭の回転が早く冷静沈着ではあるが、とくに自己顕示欲が強いとかとりたてて弁説さわやかとかそういうことはない。そんなごくふつうの女の子─‘政治的’にみれば生まれたての子鹿のようにかよわい存在─が、政治犯としてとらえられ殺された。そこに、ナチス政権の不安定さが象徴されているようにも思える。
映画には台詞も含め表情も含め、よけいなものがいっさい描かれない。ものすごくストイックでシンプルな映画だ。意図してヒロインをヒロイックに演出したりはしていない。むしろ「どこにでもいるふつうの女の子」らしさが素朴に表現されているだけだ。

作品全体を通してみると、こうしたシンプルさが却って物語のメッセージ性を強調しているような気がする。
戦争で解決することなんかなにもない。ドイツ人だろうがユダヤ人だろうが人間はみんな同じではないのか。言論の自由も信仰の自由もない平和などありえない。
もうそれは時代が証明した。さっきも書いたように。それなのに、世界中でまだ同じことを飽かず繰り返しているひとたちがいる。60年も前、「どこにでもいるふつうの女の子」がいえたことなのに。
一体われわれ人間は何をやっているのか?

こちらもオスカー候補。同じ外国語映画賞の他の候補作では『戦場のアリア』がGWに公開予定。コレも第二次大戦中の出来事を描いた映画だそうです。
白バラのことは最近になっていろいろ本が出ているそうなので、これから読んでみたいと思います。

へヴィー級でいこう

2006年02月04日 | movie
『ミュンヘン』
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初日の初回で有楽町、配給関係のヒトがうなるほど来ている。しかしあまり宣伝をしなかったせいか朝早かった(9時開始)からかそれとも寒過ぎたのか、客の入りはもうひとつ。
実はぐりも昨日まで初日に観ようとは思っていなかった。たまたま一昨日ネットのニュースで、スピルバーグが『ミュンヘン』についてのインタビューに世界で唯一TBSのニュース23の取材に応じたという記事を読み、ゆうべそれをみて、「よし、初日いちばんで観よう」と決めたのだ。

これはかなり難しい映画だ。
スピルバーグ自身も「初めて‘答えのない’映画をつくった」というようなことをいっていたが、まさにその通り。この物語には観客が期待するような‘オチ’がない。というかここに描かれているモチーフ─パレスチナ/イスラエル問題─にまだ‘オチ’がついていないからだ。スピルバーグはあえておそれずに、「まだ答えなんかない」といっている。
だけでなく、登場人物が全員特殊工作員やテロリストやマフィアといったキャラクターなので、会話がいちいち暗喩的なのだ。どの人物もストレートにものをいわない。どの台詞にも多くの示唆が含まれている。おまけに舞台がミュンヘン、エルサレム、ローマ、ロンドン、パリ、アテネ、ベイルート、アムステルダム、ニューヨーク(とあとどっか)とめまぐるしく移動し、そのたびに画面で飛び交う言語がかわり、字幕も出たり出なかったりする。常に耳のアナかっぽじって集中して聞いていないと、一体なんの話をしているのか、あっという間についていけなくなってしまう。
シリアスでもエンターテインメントでもとにかくとびきりのわかりやすさが専売特許のようなスピルバーグ作品にしては、やや珍しいタイプの映画になったのではないだろうか。

だがそのぶん物語はとてもシンプルだ。テロが起きて、被害を受けた国の政府が報復テロを計画する。指令を受けた工作員は唯々諾々としてそれに従う。ターゲットがひとりまたひとりと仕留められ、やがて工作員もひとりずつ消されていく。ただそれだけ。たったそれだけ。
それだけにディテールの説得力が重い。主人公(エリック・バナ)が精神的においつめられていくのにつれて、人々の微妙な表情、なにげない言葉のニュアンス、暗がりの物陰、微かな物音といったこまかな現象に観客も敏感になっていく。ジョークがジョークで済まされなくなり、思い過ごしが思い過ごしで済まなくなっていく。疑惑がどこまで疑惑で、正義がどこまで正義なのかみえなくなっていく。観ていてとても消耗する映画だ。
でもある意味、だからこそこの映画は危険だともいえる。思わせぶりで遠回しな言葉が濫用されるだけに、ハッキリとストレートな言葉がつい「一見すごく筋が通っている」ように錯覚しそうになる。冷静に考えれば絶対にそんなはずはないのに。
殺しあいは結局殺しあいでしかない。そこに大義なんかないことは、21世紀のわれわれはもう知っている。

すごくよくできた映画です。スピルバーグだからこそ撮れた映画だと思う。さすがオスカー有力候補といわれるだけのことはあると思います。
原作本が出ているので、今度読んでみようと思ってます。