落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

再見確定

2006年03月04日 | movie
『ブロークバック・マウンテン』
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「スパルタの狐」という逸話をどこかで聞いたことがある。
古代ギリシャの都市国家スパルタのある少年が、狐を盗んで着物のなかに隠した。周囲の人に盗みを勘づかれまいと少年は暴れる狐を力いっぱい押えこみ、苦しんでもがく狐は少年の腹部に噛みついた。それでも少年は平静を装っていたが、やがて狐に内臓を食いちぎられて死んでしまう。
原典を失念したので細かいところまでは記憶に自信はないのだが、大体そんな話だった。
この逸話は極端な質実剛健を尊ぶスパルタの男の我慢強さを喩えているそうだ。人は罪を犯す生き物だが、一旦犯した罪は命にかえても隠し通すべし。それがスパルタで美徳とされていた行動規範だった。
だがスパルタの理念が半ば意義を失った現代に生きる我々は、少年を殺したのは狐ではないことを知っている。ましてや盗みという罪でもない。
彼は、生きて罪を暴かれることを恐れた自分自身と、その価値観を強制したスパルタに殺されたのだ。

『ブロークバック・マウンテン』は現代アメリカの「スパルタの狐」だ。
ふたりの若者が出会って恋に堕ちる。許されない関係に一度は別の人生を選んだふたりだが、想いに堪えきれずひとめを忍んで不倫関係を結ぶ。そして訪れるべくして悲劇が彼らを永久に引き裂く。
よくあるメロドラマだ。
しかし舞台は現代のアメリカである。自由と平等の国とされるアメリカで、主人公たちはほんとうの自分に向きあいさらけだす自由を見失い、人生そのものまで手放してしまう。これほど悲しいことがあるだろうか。こんなにせつない話があるだろうか。
ふたりにとって「狐」はブロークバック・マウンテンでの夏の日々だ。それは輝かしい青春の聖地であり、永遠に還れる愛の楽園のはずだった。でも人は年をとるし、年をとるごとに人生は重く厄介なものになっていく。若かったころには満ちあふれていた情熱が、気づけば幽かな残り香だけになってしまっている。その時になって、自分が本当に生きたかった人生を生きていなかったことに気づいてももう遅い。
年に数回の逢瀬の別れ際、40近くになったイニス(ヒース・レジャー)がジャック(ジェイク・ギレンホール)にいう。離婚した妻(ミシェル・ウィリアムズ)が育てている娘たちの養育費がかさんで生活が苦しい、この夏は仕事を休めそうにない、次に会えるのは11月になる。ジャックはたまらず「なぜそれを1週間も黙ってたんだ」と怒りだす。オレにはおまえが必要なのに、それを20年も訴え続けてきたのに、結局「オレたちにはブロークバック・マウンテンの思い出しかないじゃないか(So what we got now is Brokeback Mountain!Everything's built on that!)」と。
まったくやりなおしのきかない年齢になってまで、自分がほんとうに生きたかった人生を生きていないことを認めるのはつらい。それまでだって楽ではなかった、若さもなくただでさえもっと苦しくなっていく残りの人生を、これまでと同じように堪え忍びつづけるつらさなど誰だって考えたくはない。遥か昔の思い出だけをよすがに20歳から40歳まで堪えたことを、これから衰えていくだけの後半生でも堪えていかねばならないとは、あまりに淋し過ぎるではないか。
「いっそ別れられたらどんなにいいか(I wish I knew how to quit you!)」「そうしたければすればいいさ(Well, why don't you?)」という会話がとてつもなく悲痛だ。

映画そのものは非常に淡々としている。
題材はセンセーショナルだが、メディアの取り上げ方や各方面でのレビューの方が映画よりもむしろ過激なくらいで、作品にはハリウッドのクラシック映画を彷佛とさせるような静謐な気品と風格がある。
脚本がまことに秀逸だ。観た直後に原作を読んだけど、あくまでもワイルドでハードボイルドな風土小説を、プロットは忠実なままで誰にでも共感出来るオーソドックスなラブストーリーとして見事に翻案化している。ふたりの青年が心を通わせていく過程や彼らの家庭に関する情景描写の緻密さは大半が脚色によるものだ。逆に原作には赤裸々な性描写が随所にちりばめられているが、映画にはそれがない。最低限何が起きているのかが観客にわかる程度の表現に留まっていて、そこにはエロティシズムや官能性はほんの微かにしかみとめられない。感じられるのは抑えに抑えてきた感情の爆発と、生まれてこのかた探し求めてきた自らの半身を見いだしたかのようなあたたかい親密さだ。
それでもこの映画に「過激な性描写がある」といわれてしまうのは巧みな演出トリックによるものだろう。男性同士のラブシーンは露出度も低く幻想的な映像に仕上げてあり、直接的な肌の露出は水泳や沐浴時のごく遠目、あるいは男女でのラブシーンに替えてある。しかもそれぞれはあっさりと短い。「性表現のあるゲイ映画」を期待して観にきた人はこの点ではいささか拍子抜けするのではないだろうか。おそらくその期待はこの映画においてはやや的外れといえるだろう。ただ格調高い文芸映画に仕上げるための狙いとしては賢明な表現方法だと思う。
ゲイ映画なんてとんでもないと思ってるそこのアナタ、ダイジョーブです。キモチわるくないですよ。なんなら親といっしょに観たって全然気まずくないですよ。マジで。

これを観るとやはり事前にヒース・レジャーの出演作を観ておけばよかったと思う。聞けば彼のタイプキャストとはまるで違う、まったく別人のような演技をしてるらしいけど、まだ1本も観たことがない。観たくなるよーな主演作があんまりないんだよね(爆)。新作の『カサノバ』は超観たいけど。てゆーか絶対観るけど。だって大好きなヴェネツィアオールロケですし。
ジェイク・ギレンホールもそうだけど、このふたりの芝居はまるっきり演技に見えないです。ヒースはタフネスにこだわるあまり自分の殻に閉じこもり大人になりきることができない不器用な西部の男そのものだし、ジェイクは小悪魔的な自分の魅力をよく知る天然プレイボーイ役がこれまたおそろしーほどハマっている。彼も旧作にはないキャラですね。これまでにぐりが観たジェイク作品の中ではこのジャック役がいちばんチャーミングだと思う。もホンットに天真爛漫としててカワイイ。イニスじゃないけど「こんちくしょー!」って感じ。それとこの人は声がかわいらしい。見た目はそこそこ大人っぽくなってきたのに少年っぽさが抜けないのはこの声のせいじゃないかと思う。40過ぎてもオニイチャンなトム・クルーズや、いつまでたっても少年みたいなレオナルド・ディカプリオもこういう声だ。

※以下伏せ字はネタバレ部分です。マウスをドラッグすれば読めます。
ジャックは最後に「交通事故」で命を落とす。そのことをイニスは数ヶ月経ってから彼の妻(アン・ハサウェイ)から告げられる。イニスは反射的に、幼いころ、リンチの挙げ句殺された「男同士で仲がよかった近所のカウボーイ」のことを思いだし、ジャックもそんな風に死んだのではないかと想像する。
しかしこの物語ではジャックの死の真実はさして重要ではない。この恋が悲劇なのは、20年もできない我慢を重ねに重ねて関係を続けてきた主人公に恋人の死を知る機会もそれをともに悼む相手もなく、まして二度と会えない最愛の人にたったひとこと「愛している」ということさえできないままに終わってしまうからだ。

愛を交わすとき、彼らは「すまない(I'm sorry.)」「いいんだ(It's all right.)」といっていた。不幸すぎる。
彼らに起きたことはとくべつなことではない。誰にでも起こり得ることだ。少なくともこの映画はそういおうとしている。背景となったアメリカ中西部の社会風土やカウボーイ文化をことさらに強調せず、登場人物たちの内面にそれを反映させてみせたのはそのためだと思う。
だから愛する人がいるなら、ちゃんと生きているうちに「愛している」といわなくてはならない。生きている限り死によって別れる日は必ずくる。最後の審判が下されてから後悔してももうとりかえしはつかない。
ほんとうに生きたい人生を生きるためには、価値観を捨てる勇気も必要だ。我々が生きている世界は古代ギリシャではない。狐を放すこともできるし、スパルタを去ることもできるのだ。

現代のスパルタ、物語の背景である“赤いアメリカ”については「アメリカン・カルチャーを知る英語講座」に詳しいです。ここすごく勉強になるので、是非一読をオススメします(バックナンバー)。