久しぶりに仕事で完徹×2。
朝帰宅してそのまま一日寝たおしたろかと思ったけど、なんだか落ち着かなくて『ブロークバック・マウンテン』を前回とは別な映画館で再見することに。
二度めは初見とは違うレビューを新たに書くつもりだったけど、先日みつけたBlog「瓶詰めの映画地獄 〜地獄が闘えと俺に言う〜」のレビューがムチャクチャ的確で、ぐりが思いつく限りこの映画について語れることの98%は全部こちらに書いてあった(爆)。これ論点も明確だしわかりやすいし読みやすいし、映画を観てる人も観てない人もこれから観る人にもオススメの文章です。今までに読んだレビューのなかでも出色ではないかと思われ。
なので今日は残りの2%について語ろーと思います。
ごく正直にいって、ぐりはこの映画がアカデミー賞を獲ったとか獲らなかったとか、初めてハリウッド映画のメインストリームに登場したゲイ映画であるとか、そういったちまたで話題の部分にはさほど興味がない。
それよりは、この映画が激しい賛否両論を喚び、ポジティブな反応にもネガティブな反応にもそれぞれに受けとめ方の差異が非常に顕著に見受けられるという、一種独特な現象の方に心をひかれた。つまりこの映画に対する評価の善し悪しに関わらず、観た人それぞれの感じ方があまりにも違いすぎるのだ。純愛映画だという人もいれば、不倫映画だという人もいる。友情の物語だという人もいれば、性愛の物語だという人もいる。普遍的という人もいれば、画期的という人もいる。性別を超えた愛を描いているという人もいるし、男同士でしか成り立たない話だという人もいる。
どれも事実だし間違ってはいない。でもこの映画で最も力をこめて描かれているのは、そしてこれほどまでに観た人間を饒舌にさせるのは、そういった既存の概念─これまでの映画にしばしば描かれてきたテーマ─の行間に託された、まさに映画的挑戦のなせる業なのではないかと思う。
それは、「人間は誰もが大きな自己矛盾を抱えて生きている」という、フィクションでの正当化が非常に困難なモチーフにほかならない。
この物語に登場する人物はみな、背反するいくつもの自己に引き裂かれている。主人公イニス(ヒース・レジャー)は極端なホモフォビアでありながらジャック(ジェイク・ギレンホール)を愛してしまう。自分のしていることが不貞でありホモ行為そのものであることを理解してはいるのに、自分自身が同性愛者であること、ふたりが愛人関係であることは頑ななまでに認めようとしない。そして自分の置かれた環境に不快感を抱きながら、過去を捨てて新しい世界を切り拓こうとは考えもしない。
ジャックは一度も訪ねてはこない恋人の元に毎年片道14時間もかけて通い続けながら、一方では他の男性と火遊びもする。肉体的には必ずしも彼を満足させてはくれない恋人に、ジャックはなぜあれほど長い間尽くせたのか。彼の妻(アン・ハサウェイ)は両親の意に染まぬ夫が同性愛者であることをうすうす感じとりつつ、結局は最後まで家族として彼を支え続けている。
イニスの妻(ミシェル・ウィリアムズ)は離婚してから元夫にも再婚を勧めたその口で、男友だちとの浮気を糾弾する。今となってはふたりにはもう関係がないはずの元夫の秘密。新しい家庭をもったことで元夫よりも社会的優位にたってみて、ずっと心にしまいこんできた恨みをぶちまけたくなったのだろうか。
こうした矛盾は誰もが抱えているごく当り前の人間性の一面だが、わかりやすさや共感しやすさが求められるフィクションの世界では真っ先に省略されやすい要素でもある。この映画では、むしろその部分を大事に丁寧にすくいとることで、キャラクターそれぞれの人物造形に深みと奥行きを与え、人の一生のままならない厳しさを描こうとしているのだ。
こうした自己矛盾のもとに、人は誰もが一様に孤独である。
なぜならそれぞれの矛盾は本人にも理解したり消化したりすることが困難であり、それゆえにどうしても他人にも決して許容されないものだと思いこみがちだからだ。他人の矛盾を許容するのは事実簡単なことではない。
それを許せるのはやはり愛の力しかない。ジャックはイニスがどんな生き方をしていても変わらず20年間愛しつづけたし、イニスにはそんなジャックの愛情がどうしても必要だった。どう考えてもふたりで幸せになれるわけなんかないと互いに知りながら離れることもできなかった、矛盾にみちた20年間。
そこにある矛盾の巨大さゆえに、この物語はこんなにもさびしく、かなしく、せつない。観ているわれわれの心の底に常にじっと横たわっている、自分ではどうすることもできないほどひややかにかたい孤独。映画は、われわれが常に自ら触れるのを避けている、もろくあやうい部分を、そっと揺り動かし、囁くのだ。所詮人はみな、誰かを愛し、愛されたい、かよわく、はかない生き物ではないかと。
こんな物語を、ゲイ映画とか恋愛物語とか感動の傑作とかありきたりな言葉でかたづけるのはやっぱり乱暴だと思う。かたづかないところにこそ、この物語の真のメッセージがこめられているからだ。
李安(アン・リー)監督や製作のジェイムズ・シェイマスはこの映画がこれほどまでの反響を喚ぶとは思ってもみなかったし、観たくない人は観なくたってかまわないといっている(ぐりもこれがヴェネツィアで賞を獲った時点ではまさかこんな騒ぎになるとは想像もしなかった)。要するに確信犯なのだ。彼らはクリエイターとしてつくりたい映画をつくったし、いいたいことはちゃんと描ききった。自分たちのしたことと作品には自信がある。人には好き嫌いがあって当り前、気にいってくれない人もいるし怒る人だっているだろう。それでもいいんだよ、だって映画だもん。
とはいえ、この映画は商業映画として最低限誰にでもわかるような平易な語り口にはかなり気をつかってはいる。たとえばアメリカのホモフォビアはキリスト教の教義によって差別行為を正当化するけど、イニスは必ずしも信仰に篤くない人物として描かれ、ジャックには逆に自分が(性嗜好も含めて)反キリスト教的であることを認めるような台詞をいわせている。そうすることで、物語の舞台アメリカときってもきれないキリスト教と登場人物とのバランス関係をさりげなく表現している。
二度みてもやっぱり細部まで神経の行き届いた優れた映画だと思いました。つくり手や出演者の情熱もとてもよく伝わってくる。偏見や先入観で否定するにはホントにもったいない作品です。
朝帰宅してそのまま一日寝たおしたろかと思ったけど、なんだか落ち着かなくて『ブロークバック・マウンテン』を前回とは別な映画館で再見することに。
二度めは初見とは違うレビューを新たに書くつもりだったけど、先日みつけたBlog「瓶詰めの映画地獄 〜地獄が闘えと俺に言う〜」のレビューがムチャクチャ的確で、ぐりが思いつく限りこの映画について語れることの98%は全部こちらに書いてあった(爆)。これ論点も明確だしわかりやすいし読みやすいし、映画を観てる人も観てない人もこれから観る人にもオススメの文章です。今までに読んだレビューのなかでも出色ではないかと思われ。
なので今日は残りの2%について語ろーと思います。
ごく正直にいって、ぐりはこの映画がアカデミー賞を獲ったとか獲らなかったとか、初めてハリウッド映画のメインストリームに登場したゲイ映画であるとか、そういったちまたで話題の部分にはさほど興味がない。
それよりは、この映画が激しい賛否両論を喚び、ポジティブな反応にもネガティブな反応にもそれぞれに受けとめ方の差異が非常に顕著に見受けられるという、一種独特な現象の方に心をひかれた。つまりこの映画に対する評価の善し悪しに関わらず、観た人それぞれの感じ方があまりにも違いすぎるのだ。純愛映画だという人もいれば、不倫映画だという人もいる。友情の物語だという人もいれば、性愛の物語だという人もいる。普遍的という人もいれば、画期的という人もいる。性別を超えた愛を描いているという人もいるし、男同士でしか成り立たない話だという人もいる。
どれも事実だし間違ってはいない。でもこの映画で最も力をこめて描かれているのは、そしてこれほどまでに観た人間を饒舌にさせるのは、そういった既存の概念─これまでの映画にしばしば描かれてきたテーマ─の行間に託された、まさに映画的挑戦のなせる業なのではないかと思う。
それは、「人間は誰もが大きな自己矛盾を抱えて生きている」という、フィクションでの正当化が非常に困難なモチーフにほかならない。
この物語に登場する人物はみな、背反するいくつもの自己に引き裂かれている。主人公イニス(ヒース・レジャー)は極端なホモフォビアでありながらジャック(ジェイク・ギレンホール)を愛してしまう。自分のしていることが不貞でありホモ行為そのものであることを理解してはいるのに、自分自身が同性愛者であること、ふたりが愛人関係であることは頑ななまでに認めようとしない。そして自分の置かれた環境に不快感を抱きながら、過去を捨てて新しい世界を切り拓こうとは考えもしない。
ジャックは一度も訪ねてはこない恋人の元に毎年片道14時間もかけて通い続けながら、一方では他の男性と火遊びもする。肉体的には必ずしも彼を満足させてはくれない恋人に、ジャックはなぜあれほど長い間尽くせたのか。彼の妻(アン・ハサウェイ)は両親の意に染まぬ夫が同性愛者であることをうすうす感じとりつつ、結局は最後まで家族として彼を支え続けている。
イニスの妻(ミシェル・ウィリアムズ)は離婚してから元夫にも再婚を勧めたその口で、男友だちとの浮気を糾弾する。今となってはふたりにはもう関係がないはずの元夫の秘密。新しい家庭をもったことで元夫よりも社会的優位にたってみて、ずっと心にしまいこんできた恨みをぶちまけたくなったのだろうか。
こうした矛盾は誰もが抱えているごく当り前の人間性の一面だが、わかりやすさや共感しやすさが求められるフィクションの世界では真っ先に省略されやすい要素でもある。この映画では、むしろその部分を大事に丁寧にすくいとることで、キャラクターそれぞれの人物造形に深みと奥行きを与え、人の一生のままならない厳しさを描こうとしているのだ。
こうした自己矛盾のもとに、人は誰もが一様に孤独である。
なぜならそれぞれの矛盾は本人にも理解したり消化したりすることが困難であり、それゆえにどうしても他人にも決して許容されないものだと思いこみがちだからだ。他人の矛盾を許容するのは事実簡単なことではない。
それを許せるのはやはり愛の力しかない。ジャックはイニスがどんな生き方をしていても変わらず20年間愛しつづけたし、イニスにはそんなジャックの愛情がどうしても必要だった。どう考えてもふたりで幸せになれるわけなんかないと互いに知りながら離れることもできなかった、矛盾にみちた20年間。
そこにある矛盾の巨大さゆえに、この物語はこんなにもさびしく、かなしく、せつない。観ているわれわれの心の底に常にじっと横たわっている、自分ではどうすることもできないほどひややかにかたい孤独。映画は、われわれが常に自ら触れるのを避けている、もろくあやうい部分を、そっと揺り動かし、囁くのだ。所詮人はみな、誰かを愛し、愛されたい、かよわく、はかない生き物ではないかと。
こんな物語を、ゲイ映画とか恋愛物語とか感動の傑作とかありきたりな言葉でかたづけるのはやっぱり乱暴だと思う。かたづかないところにこそ、この物語の真のメッセージがこめられているからだ。
李安(アン・リー)監督や製作のジェイムズ・シェイマスはこの映画がこれほどまでの反響を喚ぶとは思ってもみなかったし、観たくない人は観なくたってかまわないといっている(ぐりもこれがヴェネツィアで賞を獲った時点ではまさかこんな騒ぎになるとは想像もしなかった)。要するに確信犯なのだ。彼らはクリエイターとしてつくりたい映画をつくったし、いいたいことはちゃんと描ききった。自分たちのしたことと作品には自信がある。人には好き嫌いがあって当り前、気にいってくれない人もいるし怒る人だっているだろう。それでもいいんだよ、だって映画だもん。
とはいえ、この映画は商業映画として最低限誰にでもわかるような平易な語り口にはかなり気をつかってはいる。たとえばアメリカのホモフォビアはキリスト教の教義によって差別行為を正当化するけど、イニスは必ずしも信仰に篤くない人物として描かれ、ジャックには逆に自分が(性嗜好も含めて)反キリスト教的であることを認めるような台詞をいわせている。そうすることで、物語の舞台アメリカときってもきれないキリスト教と登場人物とのバランス関係をさりげなく表現している。
二度みてもやっぱり細部まで神経の行き届いた優れた映画だと思いました。つくり手や出演者の情熱もとてもよく伝わってくる。偏見や先入観で否定するにはホントにもったいない作品です。