落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

メモワール・オブ・ア・エージェント

2006年03月18日 | book
『標的(ターゲット)は11人─モサド暗殺チームの記録』ジョージ・ジョナス著 新庄哲夫訳
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映画『ミュンヘン』の原作『Vengeance(復讐)』の抄訳。抄訳だけど読むのけっこー時間食いましたね。はあ。
著者はスピルバーグと同じユダヤ系アメリカ人。タイトルだけみるとルポルタージュみたいだけど、実はこれはノンフィクション小説です。著者はある元特殊工作員を数回にわたってインタビューし、綿密な裏付け調査と現地取材をしたうえで、「あるミッションの顛末」をそのチームリーダーに任命された青年の目を通して描いた小説として再構築している。
原著が出版された当時も今も、その内容の信憑性は議論の的になっている。果たして暗殺計画は実在したのか、暗殺チームが派遣されたのは事実なのか。だって国家事業としての暗殺計画には物的証拠なんかなんにもない。あるわけがない。だから頼りになるのは証言者の記憶力とインタビュアーとの信頼感がすべてである。
ぐり個人はイスラエル・パレスチナ問題にも国際テロ問題にも一切知識のないまったくのド素人だけど、この本に書いてあることはある程度は信用に値するとは思ってます。それは今までに読んだ他の戦争ルポや事件ノンフィクションからつかんだ一種の感覚による勘みたいなものだ。
彫刻に喩えていうなら、ノンフィクションは事実という大理石を刻んだ彫像で、フィクションは想像という土をこねあげた塑像にあたる。それぞれは外見はなんとなく似ているし、人によっては同じだというだろう。でもその成り立ちはまるっきりの別ものだし、見る人間によってはことごとく重なりあわないものなのだ。

ノンフィクションが事実を刻んでつくったものだとするなら、本にはもちろん書かれていないこと─大理石から削り落とされた部分─がある。この本にもあえて触れられなかった事実の「不在」がくっきりと全体に影を落としている。それは『ミュンヘン』を観たときにも感じたことだが、暗殺チームのメンバーが、11人のターゲット個人の真の罪=彼らを暗殺すべき根拠を、自分自身の目と耳と頭で把握してはいなかったということだ。
彼らは訓練された軍人であり、ミッションは一種の戦争だった。戦時下では軍人は国家の命令のもとに絶対服従が基本である。それは彼らの愛国心の証明だった。どこの国だってそうだ。愛国心があるから、軍人はみな国家に従って行動する。やるべきことの善し悪しを自分で考えたり、理由を求めたりはしない。というかしなくていい。
実は人間にとってこれくらい楽なものはないのである。これをああしなさい、こうしなさい、いいかわるいかはこっちで決めてあげます、いうとおりにすればそれでよろしい、できますね?子どもをしつけたりしつけられたりするのと似ている。
だが楽な生き方にはそれなりの代償がある。ミッションに1年2年と加わっている間に、健康な人間の精神は着実に蝕まれ、人格が破壊されていく。人間はサーカスの熊ではない。エサだけ与えられて檻に閉じこめられ鎖でつながれていて、一生平気でいられる人間はいない。彼らの差し出せる愛国心にだって限りがある。

この本が出版されてもう20年以上になるので、ここに書かれたことは既に今日性を失っているともいえなくもない。
だが終わりのない報復合戦による戦争やテロは今も続いている。その虚しさ、無意味さを説いたという面では、ここに書かれているひとりの青年の心の変転は今も読むべき価値があると思う。
人を14人も殺して、一切なんの罪も問われずに暮している人がここにいる。なぜならそれは戦争だったからだ。しかし戦争だからなにをやってもいいという理屈は、殺された方には通用しない。通用しなかったからこそ、戦争は終わらないのではないか。ほんとうは誰もがやめたがっている戦争を、勝手に始めておいて自分では安全なところからそれを見物しているだけの人々がいる。この本は、そうした人々へ投げつけられたつぶてのひとつに過ぎないかもしれない。それでも、彼らは投げないわけにはいかなかったし、投げるだけの意味には、すべての人間が受け止めるべき重さがあるのではないかと、ぐりは思う。