落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

夜のアイスクリーム

2006年03月16日 | movie
『チョコレート』
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やっと観ました。
ぐりはTSUTAYAに行くたびDVDを観られもしない枚数ほいほいと借りる悪癖があり、毎回1枚か2枚は観ないまま返却することになってしまう。この映画は何度も借りておきながら今まで観てなかった映画のひとつ。
しんとした映画だ。登場人物はほんの数人しかいないし、台詞も少ないし、音楽も静かな曲ばかり。鏡やガラスに映った反射やパンフォーカスが効果的に使われていて、編集もかなりゆったりめ、映像そのものがメロディアス。このたらーんとしたテンポが南部ジョージア州の空気にあっていて、観ていて心地良い。
この映画結構好きですね。本来なら人が死ぬ話はあまり好みではないんだけど。

ストーリーは苛酷です。
主人公一家が親子代々刑務官とゆー設定がまずへヴィーだ。そしてこの家には女性がいない。主人公ハンク(ビリー・ボブ・ソーントン)の母親は自殺。妻も離婚したか死別したか、とにかくいない。庭にお墓があるから、もしかしたら死んだのかもしれない。年老いた父親(ピーター・ボイル)は白人至上主義者で、彼の厳格さが家庭を抑圧している。
たぶんこのハンクという人は一見父親と同じように厳格なように見えて、ずっとずっとそういう自分を閉じ込めている檻から解き放たれたかったのだろうと思う。父親の価値観に何の意味もないことを知っていながら、それでも、息子として父に認められたい、気に入られたい、愛されたいという抗いがたい欲求のもとで、父を否定することができなかった。母親を失い、妻を失った彼には、どんな人間であれ父親という支えが必要だったのだろう。刑務官でありながら囚われているのは主人公本人、という逆説。
だが息子であり同時に父親でもある彼がほんとうに愛を求めるべきだったのは、息子サニー(ヒース・レジャー)の方だった。かわいそうなくらいおとうさんそっくりな息子。彼もまた切実に父の愛を求めていたのに、ふたりの愛情はついにすれ違ったままに終わってしまう。友だちでも恋人でも誰でも、とにかく彼を無条件に愛してくれる人が父親以外にいればあんなことにはならなかったはずだけど、結局そんな都合のいい人はいなかったんだよね。いれば娼婦を食事に誘ったりしないもんね。
息子を失ったのをきっかけに、一枚一枚薄皮を剥いでいくように自由になっていくハンク。息子の思い出の封印を解き、職業を捨て、白人至上主義を捨て、バラバラに破綻してしまった家庭を取り戻そうとする。
しかしそれにしても心の自由とはこれほどまでの代償を伴うべきものなのだろうか。彼が求めていることは人としてごく当り前に誰にでも許されているはずの自由だ。なのに彼はがんじがらめに縛られたまま、目の前でいちばん大切なものを奪われるまで、その自由に手を伸ばすことができなかった。なにしろ大好きなチョコレートアイスクリームをうちで食べる自由すら彼にはなかったのだ。
では世代を超えて受け継がれていく妄執や差別意識はなんのためにあるのだろう。ぐりにはどうしてもそれが理解できない。

この映画でハル・ベリーはオスカーを獲りましたが、ぶっちゃけ彼女は主演ではないですねー。なんで主演女優賞。演技はすごいよかったですよ。もうホントに体当たりで。
ヒース・レジャーは李安(アン・リー)がこの演技をみて『ブロークバック・マウンテン』へのオファーを決めたとゆーくらいで、めちゃめちゃイニス役とカブってます。無口で感情表現がヘタで、でも優しくて情熱的な男の子。ほとんど喋らないんだけど、いっつもどことなく寂しそうで悲しそう。
このヒト『ブ山』ではすんごいこってこての中西部方言を喋ってましたが、今回は南部訛り。同じ英語とは思えないくらい全然喋り方違います。てゆーか作品ごとに違うカモ。『ケリー・ザ・ギャング』の時はアイルランド訛りだったし、『サハラに舞う羽根』ではクインズイングリッシュだったし。TVのトーク番組とかみると思いっきりオーストラリア訛り。ぐりは英語喋れないし訛りにも詳しくないんだけど、わかる人によればこの人の訛りはかなりうまいらしいですね。

隣の自動車修理工の男の人が雰囲気あって印象に残りました。彼は隣の主人公の家がどんどん変わってくのをどんな気持ちでみてたのかなあ。
彼やレティシア(ハル・ベリー)─“黒人”側─の視点がもうひとつハッキリしないというか、ボカされた感があるのが微妙に気になりました。意図してやってるんだろうけど、そーでないとしたら・・・どーでしょー。