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落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

今月もだまらっしゃい

2006年12月09日 | movie
『硫黄島からの手紙』
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観たよー。<ikarashoiさん
やー。よくできてたね。スゴイですよ。これほとんど、とゆーかまるっきり日本映画じゃん。もともと監督も日本人にオファーする予定だったのに、適任がみつかんなくてイーストウッド自ら演出することになったらしいけど、それってどーなの?日本映画界的にさ?『ラスト・サムライ』のときも思ったけど、こういう完成度の高い“日本映画”をハリウッドにつくられちゃって、日本では独自につくれないってヤヴァイんでないの?
宣伝コピーに「アメリカ側が5日で終わると考えていた戦いを 36日間守り抜いた日本の男たちがいた」とかなんとかゆーのがあったんだけど、既にそこからして激しく勘違い。主演の渡辺謙はインタビューで「戦争に英雄はいない」と繰り返し述べている。もうまったくその通りの物語だ。情報の行き届かない命令系統、圧倒的な物資不足、戦後日米両国から評価されたというほどの名将栗林忠道中将でさえ、錯綜する軍内の思惑に翻弄される。どれだけ天皇に忠実であろうと、生に貪欲であろうと姑息であろうと関係なく、生きるも死ぬも運次第。そんな地獄の36日間。すなわち、「アメリカ側が5日で終わらせようとした地獄が36日間に引き延ばされた」というくらいが穏当なほど悲惨な物語なのだ。

硫黄島二部作の一作め『父親たちの星条旗』に比べると、展開が非常に淡々としていて物語性は希薄だ。説明も少ない。硫黄島戦でもっとも兵士が苦しめられたのは、南国であるうえに火山性の土地特有の暑さと湿気だそうだが、この映画にはそういう気象条件などの環境を表現する描写もほとんどない。ただただ、指揮官も下士官も一兵卒も、口には出さなくてもほんとうは生きて帰りたいという一念で、ごそごそと洞窟を這い回り、故郷の家族を想い、また戦場を駆け回り、ある日突然呆気なく死ん?ナいく、そんな日々が地味に静かに描かれていくだけ。
日本人でもアメリカ人でも何人でも、生と死の狭間で感じること、求めることは変わらない、イーストウッドはそれをいいたかったのだろうと思う。そんな、どこも変わりのない人間同士が大義名分のもとに殺しあうのが戦争なのだ。主人公西郷(二宮和也)の職業をパン屋に設定したのもそのためだろう。古今東西どこの国のどんな街にでもあって、やることはみんな同じで、誰もが毎日通うような、小さな商店の主人。渡辺謙演じる栗林やバロン西(伊原剛志)は滞米経験もある当時の日本人としては特異な人物だが、そうした「アメリカを知る日本人」よりももっと、名もない下っ端の、ひたすら穴を掘ったり便所を掃除したりするだけの無知蒙昧な若者の方が、より時代や国を超えて理解されやすいはずだ。

この映画の下敷きになった『「玉砕総指揮官」の絵手紙』(栗林忠道著/吉田津由子編)をつい最近読んだ(どーでもいーけどこのタイトルはどーなの?栗林は“玉砕”はしてないんじゃないの?)。
ぐりはふだん映画をみる前に原作を読んだりしないのだが、この本は図書館で予約を入れたらあっさり順番がまわって来てつい読んでしまった。
採録された手紙の大半は戦前に書かれたものだが、硫黄島から家族に宛てたものも含まれている。だが文体にはそうした時間経過や時代背景による変化はあまりみられない。アメリカでドライブやパーティー三昧の贅沢な留学生活をしていても、硫黄島で水も食糧も乏しい苛酷な戦場生活をしていても、栗林は家族に対してはいつも同じただの「夫」ただの「父」でしかなかった。
でも戦地から家族に手紙を出したのは栗林ひとりではない。当り前のことだが、兵士ひとりひとりがみんな、もう会えないかもしれない親兄弟、妻や子ども、恋人や友人に宛てて届くあてもない手紙を書いた。それらは今日、連合軍側の軍事資料として英訳されたものがアメリカやオーストラリアの公文書館などに保存されていて、一部は『日本兵捕虜は何をしゃべ?チたか』(山本武利著)や『最後の言葉 戦場に遺された二十四万字の届かなかった手紙』(重松清/渡辺考著)で読むことができる。
栗林氏の手紙に登場する遺族は今も健在だが(訂正。直接手紙に出て来る遺族は現在全員鬼籍に入っている)、今回の映画の宣伝にはいっさい出て来ていない。栗林家だけじゃなくて、日本の戦争映画には、遺族の姿はまずまったくみうけられないのが一般的だ。どうしてかは?ョりにはわからない。あえて推測させてもらえるなら、渡辺の「戦争に英雄はいない」という言の通り、戦争で死んだ人間に、後になって人前で語るべき物語も資格もないと当事者は考えているのかもしれない。
しかしそれは違う。映画の中で栗林は「後世の人々がきみたちを悼んでくれる」というけれど、戦争で死んだ人間、生き残った人間には、後世の人間に語るべき言葉がある。遺族が語りたくないというならば生き残った人間に語ってもらうしかないし、我々は死んだ人間の言葉にももっとしっかりと耳を傾けるべきだと思う。
当事者不在のまま、感情論で「お国のために散った」英雄をまつりあげる戦争映画をつくりつづけてる場合じゃないと、ぐりは思う。