落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

緑色の灯火

2006年12月18日 | book
『グレート・ギャツビー』 スコット・フィッツジェラルド著 村上春樹訳
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最初に読んだのは高校生の時。なぜかいちばん古い野崎孝訳のバージョンで、その後文庫で買って繰返し読んだのもこの版だった。
村上春樹はあとがきでこの小説とヘミングウェイの『日はまた昇る』を対比させているけど、ぐりは『日はまた昇る』の方も大好きです。といってもヘミングウェイのほかの作品はそれほど好きではない。逆に、フィッツジェラルドのほかの短編は大好きだけど、『ギャツビー』はそうでもない。いい小説だし、魅力的な作品だとは思うんだけど。

ぐりにとっての「いい小説」は、何度読んでも読むたびに違った感興を喚起してくれる作品のことだ。
季節によって香りが変わったり、肌触りが変わったり、つやの深みが変わったりする、いろんな味わいをもった小説。
そういう意味ではこの『ギャツビー』も読むたびに感じ方が違う。初めて読んだ高校生の時には、空の星のように決して手の届かないものに焦がれたギャツビーが哀れでならなかった。20代のころは、自分の手で自分の人生を選び取ることの出来ないデイジーを憐れんだ。
30代の今は、それぞれまったく個性をもちながら、結局は全員自分の都合のいいようにしかものをみられない登場人物たちの視野の狭さを寂しく感じる。あくまでも尊大でいることでしかアイデンティティを保てないトム、高みへ上ることだけに腐心して足元に気づかうことを忘れたギャツビー、周囲の人間の不正直さを卑下するあまり自らの不誠実さには気づかないニック。
若くて、才気に溢れ、チャンスに恵まれているというだけで、人はなぜここまで傲慢になれるのだろう。それが人の愚かさでもあり、可愛らしさでもあるのだが。
古きよき時代のアメリカの象徴・中西部、しかしはっきりと時代の波に取り残されつつあった中西部で生まれ育った過去から逃れられないアメリカ人たちへの愛惜。

村上氏はこの小説を訳すにあたって、小説家としての自分のスタイルを極力廃して、原文の魅力を忠実に再現するよう注意したと書いているが、なるほど他の訳本とはかなりタッチが違う。よくいえば“村上春樹臭さ”はまったくないし、悪くいえばやや文体が固い。
この小説が書かれて既に80年の歳月が流れていて、村上氏はその経年を感じさせない翻訳に努められたそうなのだが、申し訳ないがいちばん古い野崎訳よりも却って古いような印象を受けた。村上氏はこの他に何本もフィッツジェラルド作品を訳しているのだが、そのどれともスタイルがあまりにかけ離れすぎていて不自然な気がした。とくにフィッツジェラルド独特の流麗なリズムが失われてしまっているのが残念。
ちなみに村上氏は『グレート・ギャツビー』をもじって『偉大なるデスリフ』(C.D.B.ブライアン著)などというタイトルをつけた現代小説も訳している。こちらは“ギャツビー”たちの孫にあたる世代のアメリカ人たちの、先達への叶わぬ憧れと現実への幻滅を描いた、なかなか辛辣な物語です。

ちなみにぐりがいちばん好きなフィッツジェラルドの作品はやはり村上氏訳の短編集『マイ・ロスト・シティー』所収の『残り火』。『バビロンに帰る』も好きです。
しばらく読み返してなかったけど、なんだかまた読みたくなってきたなあ。