『CURE』
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=htsmknm-22&o=9&p=8&l=as1&asins=B000PMGUBQ&fc1=000000&IS2=1<1=_blank&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>
首都圏近郊でごくふつうの一般市民が突然身近な人間を殺害したうえ喉元をX字に切り裂くという猟奇殺人が連続して発生する。担当刑事の高部(役所広司)は記憶障害の青年間宮(萩原聖人)を重要参考人として取り調べるが、間宮は自分の名前も身元も語らず、逆に「オレ、あんたの話が聞きたい」といっては相手を翻弄する。
ビデオが出たばっかりのころ一度観てます。1997年の作品だから10年も経ってないけど、映像的にそれ以上の古さを感じるのは低予算だからかな?でも内容は今観てもすごくおもしろいし、もろに舞台劇っぽい非現実的な美術なんかはやっぱりチョー好みですー。最初観た時以上に娯楽性が低く、文学的・芸術的側面を強く感じましたです。
この映画が公開された1997年は神戸連続児童殺傷事件が起きた年。前年の1996年には池袋駅構内大学生殺人事件、翌1998年には和歌山毒物カレー事件が起きている。どの事件も被害者には殺されるような理由はまったくなく、現場となった場所は自宅周辺や通勤経路など日常の延長線上にあった。逆にいえば、それまでの凶悪殺人は大抵そうではなかったのだ。被害者がひとりで人気のないところにいたとか、加害者とトラブルがあったとか、何かしら犯罪に結びつくだけの理由がそこにあった。
1995年の地下鉄サリン事件以来、無関心という“日常の中の敵意”に日本人が敏感になり始めた時代だった。今では、我々は被害者と加害者になんの関係もなくても、現場が白昼の商店街でももう驚かない。以前はそうではなかったのだが。
『CURE』はまさに“日常の延長”にある敵意、殺意をモチーフにしたサイコスリラー。
映画の中で殺されるのは犯人の妻や同僚、あるいは単なる通りすがりの無関係な人ばかり。どの犯人にも動機がなく、犯行時の記憶も意識もしっかりしていて、精神障害などの既往もない。犯人同士にも接点や共通点がない。ただ同じなのは、被害者が絶命するか意識を失うかして無抵抗になった後で喉元をX字に切り裂くという変わった手口だけ。
でもこのX字に切り裂くってのは、映画的にヴィジュアル的にわかりやすい記号としての表現に必要だっただけで、実はストーリーそのものにはあんまり重要じゃないんだよね。
それよりも、人間は誰でも殺人者=犯罪者になりうるし、きっかけは日常のどこにでも潜んでる、つまり「人を殺す」ことは全然他人事じゃないのかもよ?ってことの方が、この映画では重要なメッセージになってる気がする。
そう思うとやっぱあのファミレスのラストシーンが、どの血みどろシーンよりもコワイよなあ。
あと萩原聖人がナニゲにびみょーにエロかった(笑)。役柄的にはこの前に出た『マークスの山』とめちゃカブってるけど、『CURE』の方がさらにアブナイ色気炸裂。最近はどーされてるんですかね。彼。
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首都圏近郊でごくふつうの一般市民が突然身近な人間を殺害したうえ喉元をX字に切り裂くという猟奇殺人が連続して発生する。担当刑事の高部(役所広司)は記憶障害の青年間宮(萩原聖人)を重要参考人として取り調べるが、間宮は自分の名前も身元も語らず、逆に「オレ、あんたの話が聞きたい」といっては相手を翻弄する。
ビデオが出たばっかりのころ一度観てます。1997年の作品だから10年も経ってないけど、映像的にそれ以上の古さを感じるのは低予算だからかな?でも内容は今観てもすごくおもしろいし、もろに舞台劇っぽい非現実的な美術なんかはやっぱりチョー好みですー。最初観た時以上に娯楽性が低く、文学的・芸術的側面を強く感じましたです。
この映画が公開された1997年は神戸連続児童殺傷事件が起きた年。前年の1996年には池袋駅構内大学生殺人事件、翌1998年には和歌山毒物カレー事件が起きている。どの事件も被害者には殺されるような理由はまったくなく、現場となった場所は自宅周辺や通勤経路など日常の延長線上にあった。逆にいえば、それまでの凶悪殺人は大抵そうではなかったのだ。被害者がひとりで人気のないところにいたとか、加害者とトラブルがあったとか、何かしら犯罪に結びつくだけの理由がそこにあった。
1995年の地下鉄サリン事件以来、無関心という“日常の中の敵意”に日本人が敏感になり始めた時代だった。今では、我々は被害者と加害者になんの関係もなくても、現場が白昼の商店街でももう驚かない。以前はそうではなかったのだが。
『CURE』はまさに“日常の延長”にある敵意、殺意をモチーフにしたサイコスリラー。
映画の中で殺されるのは犯人の妻や同僚、あるいは単なる通りすがりの無関係な人ばかり。どの犯人にも動機がなく、犯行時の記憶も意識もしっかりしていて、精神障害などの既往もない。犯人同士にも接点や共通点がない。ただ同じなのは、被害者が絶命するか意識を失うかして無抵抗になった後で喉元をX字に切り裂くという変わった手口だけ。
でもこのX字に切り裂くってのは、映画的にヴィジュアル的にわかりやすい記号としての表現に必要だっただけで、実はストーリーそのものにはあんまり重要じゃないんだよね。
それよりも、人間は誰でも殺人者=犯罪者になりうるし、きっかけは日常のどこにでも潜んでる、つまり「人を殺す」ことは全然他人事じゃないのかもよ?ってことの方が、この映画では重要なメッセージになってる気がする。
そう思うとやっぱあのファミレスのラストシーンが、どの血みどろシーンよりもコワイよなあ。
あと萩原聖人がナニゲにびみょーにエロかった(笑)。役柄的にはこの前に出た『マークスの山』とめちゃカブってるけど、『CURE』の方がさらにアブナイ色気炸裂。最近はどーされてるんですかね。彼。