『いのちの食べかた』
2003〜05年にヨーロッパ各地の農場・食品加工場で撮影されたドキュメンタリー。
ロケ先が数ヶ国にまたがっているせいもあり、全編にいっさいの台詞がない。ナレーションもモノローグもない。時折は作業員の姿が映るものの、ほとんどの人物は無言のまま作業するだけ。会話があっても大抵が凄まじいボリュームの機械音にかき消されてしまう。したがって字幕もない。テロップもない。音楽(=歌詞)もない。
言葉がないというだけではない。この映画に出てくるすべてのものに、説明がない。説明がないということは、名前がないということだ。映画をみているわれわれには、撮影されている農場の場所も、作業員の名前も、加工されている食品の品種もわからない。ただそれが、「トマトらしい」「牛らしい」「ブタらしい」ということくらいしかわからない。撒いている薬もわからない。たぶん農薬かなにか、その程度のことしかわからない。使われている道具もわからない。たぶんブタの脚を切り落とす専用のハサミかなにか、その程度のことしかわからない。
みればみるほど、われわれが毎日食べているものの「わからなさ」が骨身にしみる。
わからなくてもおなかはすくし、食べ物の姿かたちをしていればわれわれはそれを食べることができる。食べ物の向こうに幻想はいらない。なぜなら「おなかがすく」という生き物としての原理に幻想はついてこないからだ。ついてくるとすれば、それは食欲とは関係のない、ステイタスとか美意識とかスタイルとか、そういうまた別次元の新たなファンタジーのためなのだ。それほどまでに、人の欲望は深く、果てがない。
ぐりが子どものころ、両親は食べ物を残すことを決して許さなかった。茶わんに飯粒がひとつついているだけでも席をたつことは許されなかった。
学校でも、給食は完食するまで食器を返すことはできなかった。食べられない子は、他の生徒が昼休みに校庭に出て遊んだり掃除をしたりしている間、ずっと席に座って、残りを食べさせられた。
それは好き嫌いなくなんでも食べられる健康な体をつくるためのしつけでもあり、かつ食べ物はすべてありがたく大切に食べるべきという考え方を教えるためのしつけでもあった。
今の子どもたちはそういうしつけは受けているのだろうか。
この映画をみていると、子どものころに大人がいっていた「食べ物のありがたみ」をつくづくと思いだす。
映画の中の食べ物たちには「ありがたさ」はまったく表現されていない。でもだからこそ、ここまで究極に機械化されたなかにも、彼らが命ある生き物であり、それでいてなお、純粋に人間たちの命のためだけに生まれ、生きていることをしみじみと感じる。
われわれが生きている限り、その命はべつの命の犠牲の上に成り立っている。
今日の食卓に並ぶ食べ物がどこから来たのか、誰も知らない時代になってどのくらいの年月が過ぎたろう。
それでも、どの食べ物も、「食べ物」になる前は「生き物」だったことは忘れてはいけないのだろう。
それが人間がいちばん人間たるべき責任のような気がする。
そういうキモチになる映画でした。
あと、機械化された大規模農業ってやっぱ手作業に比べて二酸化炭素の排出量もハンパじゃないよね・・・てことも、機械の轟音ともどもかなり気になる映画でしたです・・・。
2003〜05年にヨーロッパ各地の農場・食品加工場で撮影されたドキュメンタリー。
ロケ先が数ヶ国にまたがっているせいもあり、全編にいっさいの台詞がない。ナレーションもモノローグもない。時折は作業員の姿が映るものの、ほとんどの人物は無言のまま作業するだけ。会話があっても大抵が凄まじいボリュームの機械音にかき消されてしまう。したがって字幕もない。テロップもない。音楽(=歌詞)もない。
言葉がないというだけではない。この映画に出てくるすべてのものに、説明がない。説明がないということは、名前がないということだ。映画をみているわれわれには、撮影されている農場の場所も、作業員の名前も、加工されている食品の品種もわからない。ただそれが、「トマトらしい」「牛らしい」「ブタらしい」ということくらいしかわからない。撒いている薬もわからない。たぶん農薬かなにか、その程度のことしかわからない。使われている道具もわからない。たぶんブタの脚を切り落とす専用のハサミかなにか、その程度のことしかわからない。
みればみるほど、われわれが毎日食べているものの「わからなさ」が骨身にしみる。
わからなくてもおなかはすくし、食べ物の姿かたちをしていればわれわれはそれを食べることができる。食べ物の向こうに幻想はいらない。なぜなら「おなかがすく」という生き物としての原理に幻想はついてこないからだ。ついてくるとすれば、それは食欲とは関係のない、ステイタスとか美意識とかスタイルとか、そういうまた別次元の新たなファンタジーのためなのだ。それほどまでに、人の欲望は深く、果てがない。
ぐりが子どものころ、両親は食べ物を残すことを決して許さなかった。茶わんに飯粒がひとつついているだけでも席をたつことは許されなかった。
学校でも、給食は完食するまで食器を返すことはできなかった。食べられない子は、他の生徒が昼休みに校庭に出て遊んだり掃除をしたりしている間、ずっと席に座って、残りを食べさせられた。
それは好き嫌いなくなんでも食べられる健康な体をつくるためのしつけでもあり、かつ食べ物はすべてありがたく大切に食べるべきという考え方を教えるためのしつけでもあった。
今の子どもたちはそういうしつけは受けているのだろうか。
この映画をみていると、子どものころに大人がいっていた「食べ物のありがたみ」をつくづくと思いだす。
映画の中の食べ物たちには「ありがたさ」はまったく表現されていない。でもだからこそ、ここまで究極に機械化されたなかにも、彼らが命ある生き物であり、それでいてなお、純粋に人間たちの命のためだけに生まれ、生きていることをしみじみと感じる。
われわれが生きている限り、その命はべつの命の犠牲の上に成り立っている。
今日の食卓に並ぶ食べ物がどこから来たのか、誰も知らない時代になってどのくらいの年月が過ぎたろう。
それでも、どの食べ物も、「食べ物」になる前は「生き物」だったことは忘れてはいけないのだろう。
それが人間がいちばん人間たるべき責任のような気がする。
そういうキモチになる映画でした。
あと、機械化された大規模農業ってやっぱ手作業に比べて二酸化炭素の排出量もハンパじゃないよね・・・てことも、機械の轟音ともどもかなり気になる映画でしたです・・・。