『夜に沈む道』 ジョン・バーナム・シュワルツ著 高瀬素子訳
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夏休みのある日曜日の夜、コネティカット州の人気のない田舎道で、10歳の少年が父親の目の前でクルマにはねられて死んだ。犯人はクルマを停めもせずに走り去った。
事故はローカル新聞の隅にかんたんに載せられ、轢き逃げ事故の常としてなかなか犯人はみつからなかった。
よくある話だ。ドラマでもなんでもない。
しかしどんな事故にも、被害者がいて、加害者がいて、遺族がいる。事故に遭った人々の人生は二度と元には戻らない。損なわれたものは永遠に損なわれたままで、何ものをもってしても、その欠落は埋まることがない。人が欠落に慣れるというだけのことだ。時間はかかるが、慣れることは生命あるものすべての生きるための重要な能力のひとつだ。
この物語は、被害者の父イーサンと母グレース、少年をはねたドワイトの3人それぞれの視点で、事故後の当事者たちの悲しみと孤独と絶望を描いている。
物語といっても、話そのものはろくろく前に進まない。親しい者を亡くしたとき、その喪失に慣れるまでまるで時間が止まったように感じた経験のある人は多いだろう。イーサンもグレースも、息子が死んだことに馴染めず、生活が、人生が、家族がとめどもなく崩壊していくのをなすすべもなく茫然とみていることしかできない。何をみても、何に触れても、息子の思い出ばかり浮かんでくる。
ヴァイオリンが得意で音楽好きな、両親の自慢だった聡明な男の子。おとなしいが無口で、何を考えているのか親でもつかみかねるような年ごろだった少年。生まれたばかりのころのこと、湖に飛び込むのに夢中だった6歳のころのこと。
愛しくて愛しくて、世界中の何よりも大切に思っていたのに、何の予告もなく、ある日突然、奪われてしまった。
どんなに怒ろうと、苛立とうと、死んだ子どもは帰ってはこない。
物語が進まなくても、決して戻ってはこない過去の愛の残骸の寄せては返すような哀しい波が、読み手の心をやさしく撫でる。
ドワイトにも10歳の息子がいたが、離婚後は週に一度しか面会できなくなっていた。離れて暮していても息子が恋しくてしかたがない、不器用な父。不器用すぎて、よその子を殺した罪悪感を自らとらえるのにも時間がかかる男。そんな男にとっても、息子はすべてだった。不器用すぎて、愛を表現する能力すらもっていなくても、愛は愛だった。
ドワイトの愛も、イーサン夫妻の愛も、親が子を愛する気持ちという点では同じだ。しかしイーサン夫妻の愛はもう報われることはない。ドワイトの愛も、あらかじめいくらかは予測がつくとしても、いずれは奪われていく。
この小説はジャンルとしてはスリラーだが、ほんとうのテーマは一方通行のまま放り出される愛だ。せつないけれど、愛はそれでも美しく、あたたかい。読んでいてとても癒される。読めば誰もが、親がどれほどありがたく、子どもがどんなにかわいいかを、まざまざと思いだすのではないだろうか。
この小説は去年映画化され、アメリカでは秋に公開されている。監督は『ホテル・ルワンダ』のテリー・ジョージ、出演はホアキン・フェニックス、マーク・ラファロ、ジェニファー・コネリー、ミラ・ソルヴィーノ。日本での公開は未定。
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夏休みのある日曜日の夜、コネティカット州の人気のない田舎道で、10歳の少年が父親の目の前でクルマにはねられて死んだ。犯人はクルマを停めもせずに走り去った。
事故はローカル新聞の隅にかんたんに載せられ、轢き逃げ事故の常としてなかなか犯人はみつからなかった。
よくある話だ。ドラマでもなんでもない。
しかしどんな事故にも、被害者がいて、加害者がいて、遺族がいる。事故に遭った人々の人生は二度と元には戻らない。損なわれたものは永遠に損なわれたままで、何ものをもってしても、その欠落は埋まることがない。人が欠落に慣れるというだけのことだ。時間はかかるが、慣れることは生命あるものすべての生きるための重要な能力のひとつだ。
この物語は、被害者の父イーサンと母グレース、少年をはねたドワイトの3人それぞれの視点で、事故後の当事者たちの悲しみと孤独と絶望を描いている。
物語といっても、話そのものはろくろく前に進まない。親しい者を亡くしたとき、その喪失に慣れるまでまるで時間が止まったように感じた経験のある人は多いだろう。イーサンもグレースも、息子が死んだことに馴染めず、生活が、人生が、家族がとめどもなく崩壊していくのをなすすべもなく茫然とみていることしかできない。何をみても、何に触れても、息子の思い出ばかり浮かんでくる。
ヴァイオリンが得意で音楽好きな、両親の自慢だった聡明な男の子。おとなしいが無口で、何を考えているのか親でもつかみかねるような年ごろだった少年。生まれたばかりのころのこと、湖に飛び込むのに夢中だった6歳のころのこと。
愛しくて愛しくて、世界中の何よりも大切に思っていたのに、何の予告もなく、ある日突然、奪われてしまった。
どんなに怒ろうと、苛立とうと、死んだ子どもは帰ってはこない。
物語が進まなくても、決して戻ってはこない過去の愛の残骸の寄せては返すような哀しい波が、読み手の心をやさしく撫でる。
ドワイトにも10歳の息子がいたが、離婚後は週に一度しか面会できなくなっていた。離れて暮していても息子が恋しくてしかたがない、不器用な父。不器用すぎて、よその子を殺した罪悪感を自らとらえるのにも時間がかかる男。そんな男にとっても、息子はすべてだった。不器用すぎて、愛を表現する能力すらもっていなくても、愛は愛だった。
ドワイトの愛も、イーサン夫妻の愛も、親が子を愛する気持ちという点では同じだ。しかしイーサン夫妻の愛はもう報われることはない。ドワイトの愛も、あらかじめいくらかは予測がつくとしても、いずれは奪われていく。
この小説はジャンルとしてはスリラーだが、ほんとうのテーマは一方通行のまま放り出される愛だ。せつないけれど、愛はそれでも美しく、あたたかい。読んでいてとても癒される。読めば誰もが、親がどれほどありがたく、子どもがどんなにかわいいかを、まざまざと思いだすのではないだろうか。
この小説は去年映画化され、アメリカでは秋に公開されている。監督は『ホテル・ルワンダ』のテリー・ジョージ、出演はホアキン・フェニックス、マーク・ラファロ、ジェニファー・コネリー、ミラ・ソルヴィーノ。日本での公開は未定。