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落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

暗黒日記

2008年01月12日 | movie
『暗殺 リトビネンコ事件』

2006年11月、ロンドンで元FSB(ロシア連邦保安庁)中佐アレクサンドル・リトビネンコ氏が何者かに毒物を盛られ、23日に放射性物質による中毒で亡くなった。
この映画は、リトビネンコ氏がいったい何をして国を追われ殺されなくてはならなかったのか、彼自身の行為とその背景について、国際的にひろく取材してある。ぐりのような素人にもとてもわかりやすい。
まずFSBとはいったい何か。前身はソビエト時代のKGB、つまり秘密警察である。表向きは諜報機関だが、内情はゆすりたかりに贈収賄、テロ行為に要人暗殺、用もないのに他国に侵攻して罪もない一般市民を爆撃する、なんでもありのテロ組織だ。
リトビネンコ氏はそれを国民に告発しようとした。ロシア国内でテロがあればとにかくなんでもチェチェン人のせいにするロシア政権だが、中にはFSBのヤラセもある(どのくらいの割合でヤラセなのかはわからないが、たとえばコレとかコレはヤラセだといわれている)。なんでそんなことをせにゃいかんのか?利権のためだ。すべてカネなのだ。食糧不足で餓える国民のために出された国費もトーゼンのよーに役人のフトコロへ消える。戦争があって人が死ねば動くカネも莫大にあるというわけだ。

国家の罪を、リトビネンコ氏は命をかけて告発した。ジャーナリストのアンナ・ポリトコフスカヤ氏もそうした。
しかしなぜかロシア国民は無関心だ。怖いからだ。旧ソビエト時代、隣人が隣人を、級友が級友を密告して点数を稼ぐことで国民を縛りつけて来た歴史が、ロシア人の心を未だに蝕んでそのままになっている。ヘンに反応すれば自分が危ないし、反応したところで、たかがニュース1本、告発記事1本で暮らしがよくなるわけじゃない、そんな諦観がロシアの人々の目を、耳を塞いでしまっている。
広い広いロシア、チェチェン人も同胞といえど他人事なのだ。
国民の6割がテロは政府のヤラセだと気づいていて、街頭では活発にデモが行われ、プーチンなんか辞めてしまえとみんなが大声で叫んでいるのに、プーチンは再選したしテロの首謀者は政権の主要ポストを平然と占めている。選挙なんか自由主義なんかこの国ではなんの意味もない。
ロシアとの国交が第一の諸外国も、表立って非難はしない。みんな自分がかわいいのだ。

作中に登場するフランスの哲学者が「無関心は罪だ」という。
腐敗も暴力も無関心によって助長され正当化されていくからだ。
この映画のテーマはまさにそれだ。
リトビネンコ氏は正義に生きようとして死んだが、亡くなる前にロシア正教からイスラム教に改宗した。そうすることで、ロシア人として、チェチェン人を受け入れることを、彼なりに主張したかったのだろう。せめて最期にそうすることで、無関心ではない正義を証明したかったのだろう。

しかし画面にやたらめったら監督がでっぱってくるのはジャマだった。編集とか音楽とかすごくうまく使ってあって、複雑な内容のわりにわかりやすくなってはいるけど、監督の顔とか喋りがウルサくて、妙にヒロイックすぎてクサかった。
あとスグ後ろの列に座ったおっさんがすーーーんげー爆音でイビキかいてずーーーっと寝てて、これにも心底参りました。寝るなら来るなよ・・・。
とりあえず1/3くらいで挫折した『ロシアン・ダイアリー』にもっかいチャレンジせねば。

愛の花よ

2008年01月12日 | movie
『サラエボの花』
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第二次世界大戦以後のヨーロッパでは最悪とまで呼ばれたボスニア紛争から10余年。
エスマ(ミリャナ・カラノヴィッチ)は中学生の娘サラ(ルナ・ミヨヴィッチ)とふたり暮しの主婦。当面の悩みは娘の修学旅行の費用を捻出することだが、父親は戦死したと聞かされているサラはそれが証明されれば旅費は免除されるはずと訝り、親密だった母娘の関係に亀裂が入り始める。
ふたりが暮しているのはサラエボのグルバヴィッツァ地区。サッカーがお好きな方は前全日本監督イビチャ・オシム氏の出身地として思いだされる向きもある地名だが、ぐりはつい先月観た『カルラのリスト』で耳にした(か、その後ユーゴについて調べてどっかで読んだ)、世にも悪名高き愚行の行われた土地として記憶していた。

グルバヴィッツァでは当時大勢の男たちが連れ去られて虐殺され、まとめて穴に埋められた。ボスニアでは今も、ときどきこうした虐殺現場の発掘作業が行われ、戦争中に家族が行方知れずになったという人たちが遺体を探しにいく。作中にもこのエピソードはエスマとバーのボディガード(レオン・ルチェフ)が初めて言葉を交わすときの会話に登場するのだが、悲しい悲しい思い出なのに、ふたりはそのときのことを思い返してふと微笑む。
エスマの両親も戦争で亡くなっており、また極度に男性との接触を嫌う一種のパニック障害のような持病をもつ彼女に結婚していた形跡はない。彼女がもともとシングルマザーであり、サラに父親などというものが存在しないことは初めから明らかだ。そしてグルバヴィッツァという土地とサラの年齢を考えれば、彼女の出生の事情はすぐに推し量れる。
ネタバレもなにもない。口に出すのもおぞましいほどの蛮行が、当時のサラエボでは当り前に行われていたのだ。実際に、ボスニアにはサラのような子どもが数えきれないほど大勢いるに違いない。被害者は2万人を超えるともいわれているのだから。

今も紛争の後遺症から抜けられないボスニア人たちと、人道支援という形式的な援助でお茶を濁す国際社会や政府との温度差も、しっかりと描かれる。
父親が戦死していれば修学旅行費が免除、家族が負傷していれば減額、などという妙な割引設定もそのひとつだろう。国連の難民センターでグループセラピーに参加する女性たちの渇いた表情や、食糧支援が満足に行き渡らず、年金も満額は支給されないといった不満だらけの市民感情は確かに海外ニュースでは報道されない。
なにしろあれから10年以上経ったのだ。
しかし敵の子を産んだ母親には10年もクソもない。彼女たちは一生、誰にもいえない心とからだの傷を、愛しい我が子として育てていかなくてはならないのだ。
戦争の醜さ、敵への憎悪、家族を失った哀しみまでも凌駕する、奇跡的に深い母性愛がこの映画のテーマだが、終わってみれば、ほんとうにこんな母子が存在し得るものなのかとふと考えさせられる。
いてほしいと思う。愛はすべてを超えると思いたい。
きっと監督も、そう考えてこの映画を撮ったのだろうと思う。