『源氏の男はみんなサイテー 親子小説としての源氏物語』 大塚ひかり著
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=htsmknm-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4838709358&fc1=000000&IS2=1<1=_blank&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>
年末に読んだ『カラダで感じる源氏物語』と同じ著者による源氏物語解説本。このために正月に実家で『あさきゆめみし 宇治十帖編』(笑)、読んどきましたー。
おもしろかった。一気読みしちゃいましたよ。
源氏物語といえば一夫多妻制の時代を背景に光源氏という世にも稀なる美貌の貴公子の恋愛遍歴を描いた王朝文学、みたいな風に学校で習った記憶があるし、たぶん世間一般の認識もそんなとこだろうと思うんだけど、実際の作品には光源氏とその妻・愛人以外にも実に多彩な人物がこれでもかとわんさか登場している。なんとなく「女ばっかりVS光る君」みたいな構図ばかりが目立ってたよーな気がしてたけど、ほんとはそれだけじゃなかったのだ。
この本では、光源氏を筆頭に父・桐壺帝、兄・朱雀帝、ライバルにして親友・頭中将、長男・夕霧、その親友にして間男・柏木といった誰もが知る教科書的メインキャラクターから、影の薄い弟・螢宮や鬚黒大将や伊予介など、登場人物から男性ばかりをピックアップして、紫式部が描いた宮廷社会の矛盾と生々しさをあえて「イケてない」方面から解説している。恋愛小説=女のユメ物語、とゆー基本概念を企画からひっくりかえしている。
これはやはりこの作品が成立した時代、仏教思想の影響が濃くなっていき、母系社会を基盤とする貴族制度が崩壊し始めていたという、時流の過渡期にさしかかっていたことを根拠にしているのだろう。
平安時代以前、宮廷を中心とする貴族社会ではしきたりと前例が世の中の仕組みすべてを支配していた。仏教より先に宮廷のシステムを形成したのは道教。道教はものすごく簡単にいえば(というかぐりもぜんぜんわかってないんだけど)、中国で自然科学と占星術を基本にして生まれた考え方で、今でも陰陽道や風水という形になって親しまれている。
しかし紫式部のころのトレンド(死)は仏教である。このふたつの宗教、ぜーんぜん考え方が違う。よーするに価値観の転換である。そういえば飛鳥時代に活躍した厩戸皇子(聖徳太子)も当時は新興宗教だった仏教の信奉者だった。時代を動かすのはいつも変革者。既存の概念に正面きって疑義を呈するだけの頭脳と勇気がある人なのだ。
なので源氏物語には随所に、現世的な価値観に対する疑問、矛盾の追求が垣間みられる。結婚が女の幸せってそれホント?モテるってそんなにいいこと?権力や身分ってそんなに大事なもの?という風に、それぞれに富や地位や美貌をもつ男たちの浮き沈みや恋愛劇の浅はかさを通して、世間で当り前とされている幸福観を覆して見せている。
この本を読んでいると、源氏物語の世界において、実家で通って来る夫と子どもをつくり、両親が死ねば財産を相続して家を継ぎ、場合によっては実家で一生を終えることもある貴族女性たちは「動かない点」で、母の実家の援助で育ち、長じては財産や権力を目当てに出世の道具になる妻を捜して何人もの女と関係した貴族男性が「線」のようにみえてくる。
源氏物語ではこの点と線との構造に既に矛盾があり、その矛盾にすら時代の変遷が反映されている。
たとえばこの物語には桐壺帝からその曾孫・薫(ホントは違うけど)まで四世代の人々が描かれるが、主人公である二代めの光源氏は女の貞操観念にかなりゆるいところがある。若いうちはさんざっぱら人妻や未亡人との恋に明け暮れ、中年以降は他の男(冷泉帝)に嫁がせた養女たち(玉鬘・秋好中宮)にまでいい寄る。
ところがこれが四代めの宇治十帖になると、薫と匂宮の二夫にまみえた浮舟は罪悪感に堪えきれず自殺を計った挙げ句「もう男はイヤッ」と出家してしまう。
おそらく前者の、性に比較的おおらかな考え方が平安前期までの一般的な男女観で、後者の潔癖な貞操観念は仏教や儒教の影響を強く受けて変化した紫式部自身の男女観を軸にしたものではないかと思う。
紫式部の当時としては新しい考え方は男性観にも現れていて、恋愛上手で風流人、いってみれば平安貴族の典型の螢宮は「浮ついていて頼りない」と書かれるのに、しきたりと女性受けが政治力を左右する貴族社会では物笑いの種にまでされるダサくて無骨な鬚黒大将は「実直で真面目」と評価されている。これは新旧どちらが良いとか悪いとかいう問題ではなく、ものの見方にもこれほど極端な多元性が考えられるということなのだろう。
この物語が千年の時を超えて万人に読み継がれる傑作とされているのは、何も作者・紫式部ひとりが天才だったからだけではなくて、こうした価値観の拡大と錯綜が、物語の世界観にひろがりと柔軟性を与えているからではないかと思う。
この著者・大塚氏は源氏関係の本を他にもたくさん書いていてどれもすごく興味深いのだが、この本と『カラダ〜』もちょっと重複してたし次にどれを読めばいいのかイマイチよくわからない。
またこんどゆっくり検討しまーす。
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=htsmknm-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4838709358&fc1=000000&IS2=1<1=_blank&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>
年末に読んだ『カラダで感じる源氏物語』と同じ著者による源氏物語解説本。このために正月に実家で『あさきゆめみし 宇治十帖編』(笑)、読んどきましたー。
おもしろかった。一気読みしちゃいましたよ。
源氏物語といえば一夫多妻制の時代を背景に光源氏という世にも稀なる美貌の貴公子の恋愛遍歴を描いた王朝文学、みたいな風に学校で習った記憶があるし、たぶん世間一般の認識もそんなとこだろうと思うんだけど、実際の作品には光源氏とその妻・愛人以外にも実に多彩な人物がこれでもかとわんさか登場している。なんとなく「女ばっかりVS光る君」みたいな構図ばかりが目立ってたよーな気がしてたけど、ほんとはそれだけじゃなかったのだ。
この本では、光源氏を筆頭に父・桐壺帝、兄・朱雀帝、ライバルにして親友・頭中将、長男・夕霧、その親友にして間男・柏木といった誰もが知る教科書的メインキャラクターから、影の薄い弟・螢宮や鬚黒大将や伊予介など、登場人物から男性ばかりをピックアップして、紫式部が描いた宮廷社会の矛盾と生々しさをあえて「イケてない」方面から解説している。恋愛小説=女のユメ物語、とゆー基本概念を企画からひっくりかえしている。
これはやはりこの作品が成立した時代、仏教思想の影響が濃くなっていき、母系社会を基盤とする貴族制度が崩壊し始めていたという、時流の過渡期にさしかかっていたことを根拠にしているのだろう。
平安時代以前、宮廷を中心とする貴族社会ではしきたりと前例が世の中の仕組みすべてを支配していた。仏教より先に宮廷のシステムを形成したのは道教。道教はものすごく簡単にいえば(というかぐりもぜんぜんわかってないんだけど)、中国で自然科学と占星術を基本にして生まれた考え方で、今でも陰陽道や風水という形になって親しまれている。
しかし紫式部のころのトレンド(死)は仏教である。このふたつの宗教、ぜーんぜん考え方が違う。よーするに価値観の転換である。そういえば飛鳥時代に活躍した厩戸皇子(聖徳太子)も当時は新興宗教だった仏教の信奉者だった。時代を動かすのはいつも変革者。既存の概念に正面きって疑義を呈するだけの頭脳と勇気がある人なのだ。
なので源氏物語には随所に、現世的な価値観に対する疑問、矛盾の追求が垣間みられる。結婚が女の幸せってそれホント?モテるってそんなにいいこと?権力や身分ってそんなに大事なもの?という風に、それぞれに富や地位や美貌をもつ男たちの浮き沈みや恋愛劇の浅はかさを通して、世間で当り前とされている幸福観を覆して見せている。
この本を読んでいると、源氏物語の世界において、実家で通って来る夫と子どもをつくり、両親が死ねば財産を相続して家を継ぎ、場合によっては実家で一生を終えることもある貴族女性たちは「動かない点」で、母の実家の援助で育ち、長じては財産や権力を目当てに出世の道具になる妻を捜して何人もの女と関係した貴族男性が「線」のようにみえてくる。
源氏物語ではこの点と線との構造に既に矛盾があり、その矛盾にすら時代の変遷が反映されている。
たとえばこの物語には桐壺帝からその曾孫・薫(ホントは違うけど)まで四世代の人々が描かれるが、主人公である二代めの光源氏は女の貞操観念にかなりゆるいところがある。若いうちはさんざっぱら人妻や未亡人との恋に明け暮れ、中年以降は他の男(冷泉帝)に嫁がせた養女たち(玉鬘・秋好中宮)にまでいい寄る。
ところがこれが四代めの宇治十帖になると、薫と匂宮の二夫にまみえた浮舟は罪悪感に堪えきれず自殺を計った挙げ句「もう男はイヤッ」と出家してしまう。
おそらく前者の、性に比較的おおらかな考え方が平安前期までの一般的な男女観で、後者の潔癖な貞操観念は仏教や儒教の影響を強く受けて変化した紫式部自身の男女観を軸にしたものではないかと思う。
紫式部の当時としては新しい考え方は男性観にも現れていて、恋愛上手で風流人、いってみれば平安貴族の典型の螢宮は「浮ついていて頼りない」と書かれるのに、しきたりと女性受けが政治力を左右する貴族社会では物笑いの種にまでされるダサくて無骨な鬚黒大将は「実直で真面目」と評価されている。これは新旧どちらが良いとか悪いとかいう問題ではなく、ものの見方にもこれほど極端な多元性が考えられるということなのだろう。
この物語が千年の時を超えて万人に読み継がれる傑作とされているのは、何も作者・紫式部ひとりが天才だったからだけではなくて、こうした価値観の拡大と錯綜が、物語の世界観にひろがりと柔軟性を与えているからではないかと思う。
この著者・大塚氏は源氏関係の本を他にもたくさん書いていてどれもすごく興味深いのだが、この本と『カラダ〜』もちょっと重複してたし次にどれを読めばいいのかイマイチよくわからない。
またこんどゆっくり検討しまーす。