落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

泣きたくても泣けない

2010年04月11日 | movie
『息もできない』

借金取りのチンピラ・サンフン(ヤン・イクチュン)は路上ですれ違った女子高生ヨニ(キム・コッピ)に偶然唾を吐きかけてしまい、口論の挙句、勢いで殴ってしまう。ヨニは治療代を払えと迫り、ビールを奢らせる。
なぜか気のあうふたりは時折酒を酌み交す仲になるのだが、互いの共通点である複雑な家庭のことは話せないでいた。
昨年の東京FILMeXで最優秀作品賞と観客賞をダブル受賞した他、各国の映画祭で25の栄冠に輝いた力作。

たまたまですがフィルメックスの授賞式に出席(?とゆーのか?)しとりましてー。
作品は観てなかったんだけど、スケジュールの都合で既に帰国してたヤン・イクチュン(監督主演)がビデオレターでお茶目に「ヨロコビの舞」を踊ってたのが強烈な印象に残ってて。
だから観る前は「あの踊ってた人がそのまま画面に出て来たらどないしょう?」とか思っちゃってました。
まーそれは完全に杞憂だったわけですがー。ハイもうめちゃめちゃおもろかったです。しかも泣ける。しかも号泣。

喧嘩屋と少女の交流の物語、とゆーと古今東西いろんな若者映画に使われてきた定番のフォーマットなんだけど、この『息もできない』は、おそらくかつてのどの映画とも違う。相当にはっきりと一線を画している。
どこにも救いがないのだ。きれいさっぱり、まったく救いというものがない。
サンフンには少年時代、父親(パク・チョンスン)が母親に暴力をふるい、仲裁に入った妹を死なせてしまうという過去があった。刑期を終えて出所した父の扶養義務はサンフンにあるが、彼にとって父は家族を奪った仇でもあった。
サンフンには腹違いの姉がいて、離婚してひとりで息子・ファンギュ(キム・ヒス)を育てている。血をわけた甥のことはかわいいサンフンだが、突如現れた祖父を何も知らずに慕うファンギュの家に、サンフンの居場所はなくなっていく。
チンピラのサンフンに物怖じもせずつっかかるヨニにも母親はいない。ベトナム戦争から戻って精神を病んだ父の介護をし、家事をきりもりする彼女に、弟のヨンジェ(イ・ファン)は小遣いをせびるばかりで協力しようともしない。
昨今の日本では、家族がどーとか家庭がどーとかとゆー安直なキーワードさえ持ち出されればとりあえずとにかく誰もが共感せにゃいかんとゆーミョーなルールが流行ってるみたいだけど、この映画の中ではそんなものクソクラエである。サンフンもヨニも、家族という逃げたくても逃げようのない呪縛の混乱の中で、息もできないほどひたすらもがきつづける。

かといって暗い映画かとゆーと、これまたまったくそんなことはない。
ものすごく不思議なんだけど、めちゃくちゃ笑えるのだ。暴力シーンは多いし、台詞は汚い言葉ばっかり(2分に1回くらいの頻度で「クソ野郎」とゆー言葉がでてくる。登場人物のほぼ全員が連発しまくるから。お陰様で覚えなくていい単語が頭にしっかりとこびりついてしまった)なのに、なんだか笑ってしまう。そーゆーとこは北野武とかクエンティン・タランティーノの作風にちょっと似てるかもしれない。暴力シーンといってもロングショットがほとんど使われず、顔のクローズアップと台詞と音だけで暴力の醜悪さを表現するスタイルには、安易なアクション映画をつくりたかったわけではないという意図がはっきり感じられる。
他に過去の「アウトローもの」と大きく違う点としては、エロとかラブとかがロマンチックな要素が全然ないとこですね。出てきそうで出てこない、とゆーより、ハナからまるっきりそーゆーニオイもない。主役のヤン・イクチュンは亀田兄弟みたいなご面相で見るからに三流ヤクザそのものの小汚いかっこうで、ほてほてガニ股で歩くみっともない男だし、キム・コッピに至っては何時代の女子高生なんだか、唖然とするほどのイモっぷり。真っ黒なヘルメットスタイルを後ろで無造作にまとめた髪はぼさぼさで化粧っ気も完全になし、ピンクのカーディガンを羽織った制服姿にも十代の少女らしいオシャレ心などというものは微塵もない。顔だちも大日如来そっくりの不適な面構え。色気なんとゆーものとは地球3周分くらいかけ離れている。
それでも、ふたりは自然と心を許しあい、互いに引き寄せられていく。おそらく、愛とか恋とかそういうものに、漠然とした期待のようなものは感じていただろう。それが彼らにとって「現実」となるのは、きっと映画の物語が終わった後のことなのだろうと、ふたりは予想していたに違いない。

サンフンの台詞に「韓国の父親は最悪だ」という言葉が出て来たけど、実をいうと在日韓国人であるぐりの知る韓国の男性というのは大なり小なり、この映画に描かれる男性像に共通するものがある。それを責めたいとまでは思わない。彼らも彼らなりに家庭という世代を超えた呪縛に苦しんでいる。
脚本/編集もこなしたヤン・イクチュンには、それは許しがたくどうしようもない怒りでしかなかったのだろう。怒りのパワーでこれだけの力作を撮りあげた根性は、紛れもなく韓国社会にしか生まれ得ない文化の発露だと思う。
今後の活躍にも期待したいと思います。