『福田君を殺して何になる 光市母子殺害事件の陥穽』 増田美智子著
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ぐりはどっちかといえばマスコミ側に属する人間だけど、正直にいって、マスコミ業界の体質にはかなり抵抗があるし、それは年を追うごとに慣れるどころかひどくなっていっている気がする。
たとえば、ぐりは取材相手や制作協力者にはできる限りの礼は尽くすし、事前のリサーチも決して手は抜かない。手に入るだけの資料は網羅しておいて、そのうえで、本人に気持ちよく取材に応じてもらえるよう、楽しんで制作に協力してもらえるようにアレンジする。何よりも信用第一だから、提示できる情報はすべてあらかじめ提示するし、それなりに下手にも出る。時間や場所の都合は完全に相手ありきで決める。こっちのペースはほぼ二の次、あるいは三の次である。
べつに卑屈になっているつもりはなくて、これはぐり自身が仕事を楽しまなければいいものはできないし、意地をはって突っ張りあったところで観てくれる一般視聴者の心にちゃんと届く表現にはならない、と考えているからだ。
だから、まずはとにかく相手のことを好きになるように努めるし、よしんばどこかに反感をもったとしても、取材中/制作中はあくまで良好な関係を保つ。そのうえで、他のマスコミには決して見せない顔をひきだしたいと狙っている。
もちろん、取材が済んで制作も完了すればきちんとお礼をする。借りた資料などはなるべく早く自ら返却するし、完成品には手書きの礼状をつけて届ける。
こんなことはほとんど素人のぐりがわざわざえらそうに主張するようなことではなくて、相手の立場になって考えれば誰でもすぐわかるはずの常識ではないかと思う。
ところが、ほとんどのマスコミ関係者はぐりとはまったく別の捉え方をしている。
ぐりの目からみれば、彼らの多くは「臆病なくせに、高級でも何でもないそこらへんのボロをかむって“虎の衣を借る狐”を気取っているイタイ人たち」にみえる。取材といえば誰でも大喜びで協力するのが当り前だと大真面目に思いこんでいるマスコミのなんと多いことか。あからさまな上から目線を隠そうともしない仕事仲間の傲岸な態度に、イヤな汗を抑えながら黙って尻拭いしてきたことも何度もある。
相手が誰であろうと、それぞれに生活があること、仕事があること、将来があることが、なぜマスコミにはわからないのだろう。マスコミ対応よりもずっとずっと大切なものを、誰もがそれぞれに抱えて生きている。
どうしてそんな当然のことがわからないのだろう。
この著者の増田氏は経歴をみるとフリーライターなどという大層なものでもなんでもなく、ごくふつうのそのへんの素人記者である。
だから取材スタイルはぶっちゃけ完璧にど素人である。はっきりいって見てられないくらいひどい。新聞読んだだけで裁判経過をおさらいもしないって、それどー考えてもアタマおかしいでしょ。
この取材対象者の被告については、既に元弁護団の今枝仁氏が『なぜ僕は「悪魔」と呼ばれた少年を助けようとしたのか』を書いているし、捜査段階から彼本人の生い立ちが相当に不幸なものであったことが明らかになっている。
でも彼の家族にも生活はある。ほんとうによい取材をし、彼本人の死刑判決に議論をもたらすだけの証言をひきだしたければ、家族がどんな人物であろうと通すべきスジは通さなくてはならない。なのにしょうもないケンカなんかしてそれをそのまま書くなんて、まるっきり子どものやることではないか。著者は被告を「幼い」と表現しているが、著者本人もどっこいである。
弁護団とのやりとりにしてもそうだ。なんでこの人はいちいちこんなに喧嘩腰なのか。相手が取材に応じないのには相応の理由がある。それを忖度もせずにただ批判ばかりしている。徹頭徹尾感情論でしかない。こんなものジャーナリズムでもなんでもない。
クオリティからいえば、わざわざ少年法を犯してまで実名を冠するほどの本ではない。
だが、何度も拘置所で被告と面会し、インタビューした内容には確かにほろりとさせられる。
被告は罪もない被害者を殺した犯罪者だが、この犯罪を犯すことなく知り得なかった世界で、死刑を待つ人間にしか持ち得ない精神を日々磨いて暮している。
彼ひとりを死刑にしたところで、おそらく日本は何も変わりはしないだろう。
しかし、なぜ彼が人を殺し、何のために死刑になるのかは、誰もが真剣に考えるべきだと思う。
彼がはまり込んだ袋小路は、もしかしたら、誰ものゆくてに待ち構えているのかも知れないのだから。
関連レビュー:
『休暇』
『僕はパパを殺すことに決めた 奈良エリート少年自宅放火事件の真相』 草薙厚子著
『死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う。』 森達也著
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ぐりはどっちかといえばマスコミ側に属する人間だけど、正直にいって、マスコミ業界の体質にはかなり抵抗があるし、それは年を追うごとに慣れるどころかひどくなっていっている気がする。
たとえば、ぐりは取材相手や制作協力者にはできる限りの礼は尽くすし、事前のリサーチも決して手は抜かない。手に入るだけの資料は網羅しておいて、そのうえで、本人に気持ちよく取材に応じてもらえるよう、楽しんで制作に協力してもらえるようにアレンジする。何よりも信用第一だから、提示できる情報はすべてあらかじめ提示するし、それなりに下手にも出る。時間や場所の都合は完全に相手ありきで決める。こっちのペースはほぼ二の次、あるいは三の次である。
べつに卑屈になっているつもりはなくて、これはぐり自身が仕事を楽しまなければいいものはできないし、意地をはって突っ張りあったところで観てくれる一般視聴者の心にちゃんと届く表現にはならない、と考えているからだ。
だから、まずはとにかく相手のことを好きになるように努めるし、よしんばどこかに反感をもったとしても、取材中/制作中はあくまで良好な関係を保つ。そのうえで、他のマスコミには決して見せない顔をひきだしたいと狙っている。
もちろん、取材が済んで制作も完了すればきちんとお礼をする。借りた資料などはなるべく早く自ら返却するし、完成品には手書きの礼状をつけて届ける。
こんなことはほとんど素人のぐりがわざわざえらそうに主張するようなことではなくて、相手の立場になって考えれば誰でもすぐわかるはずの常識ではないかと思う。
ところが、ほとんどのマスコミ関係者はぐりとはまったく別の捉え方をしている。
ぐりの目からみれば、彼らの多くは「臆病なくせに、高級でも何でもないそこらへんのボロをかむって“虎の衣を借る狐”を気取っているイタイ人たち」にみえる。取材といえば誰でも大喜びで協力するのが当り前だと大真面目に思いこんでいるマスコミのなんと多いことか。あからさまな上から目線を隠そうともしない仕事仲間の傲岸な態度に、イヤな汗を抑えながら黙って尻拭いしてきたことも何度もある。
相手が誰であろうと、それぞれに生活があること、仕事があること、将来があることが、なぜマスコミにはわからないのだろう。マスコミ対応よりもずっとずっと大切なものを、誰もがそれぞれに抱えて生きている。
どうしてそんな当然のことがわからないのだろう。
この著者の増田氏は経歴をみるとフリーライターなどという大層なものでもなんでもなく、ごくふつうのそのへんの素人記者である。
だから取材スタイルはぶっちゃけ完璧にど素人である。はっきりいって見てられないくらいひどい。新聞読んだだけで裁判経過をおさらいもしないって、それどー考えてもアタマおかしいでしょ。
この取材対象者の被告については、既に元弁護団の今枝仁氏が『なぜ僕は「悪魔」と呼ばれた少年を助けようとしたのか』を書いているし、捜査段階から彼本人の生い立ちが相当に不幸なものであったことが明らかになっている。
でも彼の家族にも生活はある。ほんとうによい取材をし、彼本人の死刑判決に議論をもたらすだけの証言をひきだしたければ、家族がどんな人物であろうと通すべきスジは通さなくてはならない。なのにしょうもないケンカなんかしてそれをそのまま書くなんて、まるっきり子どものやることではないか。著者は被告を「幼い」と表現しているが、著者本人もどっこいである。
弁護団とのやりとりにしてもそうだ。なんでこの人はいちいちこんなに喧嘩腰なのか。相手が取材に応じないのには相応の理由がある。それを忖度もせずにただ批判ばかりしている。徹頭徹尾感情論でしかない。こんなものジャーナリズムでもなんでもない。
クオリティからいえば、わざわざ少年法を犯してまで実名を冠するほどの本ではない。
だが、何度も拘置所で被告と面会し、インタビューした内容には確かにほろりとさせられる。
被告は罪もない被害者を殺した犯罪者だが、この犯罪を犯すことなく知り得なかった世界で、死刑を待つ人間にしか持ち得ない精神を日々磨いて暮している。
彼ひとりを死刑にしたところで、おそらく日本は何も変わりはしないだろう。
しかし、なぜ彼が人を殺し、何のために死刑になるのかは、誰もが真剣に考えるべきだと思う。
彼がはまり込んだ袋小路は、もしかしたら、誰ものゆくてに待ち構えているのかも知れないのだから。
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