『故郷よ』
1986年4月26日、プリピャチ。
婚礼の最中に「山火事の消火活動に行く」といい残したまま帰らなかったアーニャ(オルガ・キュリレンコ)の花婿(ニキータ・エンシャノフ)。
原発技師アレクセイ(アンジェイ・ヒラ)は妻子を避難させ、黒い雨が降り注ぐ街で傘を買って人々に配ってまわる。
10年後、アーニャはチェルノブイリツアーのガイドとなり、アレクセイの息子ヴァレリー(イリヤ・イオシフォフ)は廃墟となったプリピャチで父を捜して彷徨う。
チェルノブイリ原発事故で故郷を追われた人々の悲哀を描く。
以前にも書いた通り、ぐりには郷土愛とか郷愁とかそういう感情がまったくない。
子どものころは早く大人になって地元を出ていきたいとしか思っていなかったし、出ていってからも懐かしいと思ったことはない。東京に住んで20年以上だけど、この街にもとくに思い入れはない。生まれてこのかたホームシックにかかったこともない。
だからこそあたたかい郷土愛は美しいと思うし、心底羨ましいとも思う。その場所が紛れもなく自分自身のための唯一無二の場所だと信じられる感覚なのだとしたら、自分には決して手に入らない心持ちだから、憧れる。
逆にいえば、その愛に縛られる苦しみは残念ながらよくわからない。ただの妄執のような気もするけど、かといって同情するのも何か違う気がする。
できることならわかりたいとは思う。わからなくても、受け入れたいと思う。心の底から、純粋に。
2011年製作なので、映画そのものは福島第一原発事故とは関係がない。
でもどうしても、どの場面にも、どの台詞にも、福島の現実を重ねて観てしまう。
それは制作者側の本意ではないかもしれない。だが福島の事故はもう起こってしまった。そして次にいつどこで起こってもおかしくない。好むと好まざるに関わらず、我々はそういう社会に生きている。
チェルノブイリで起こった悲劇の多くは、情報公開されない共産主義体制下で引き起こされたことだと誰もが思ってきた。事故の事実は一般市民には知らされず、危険区域の住民が避難するのに何日もかかった。私物の持ち出しは制限され、ペットや家畜を連れて行くこともできなかった。親しい人々は散り散りに引き離され、避難先では苛酷な差別と健康上の不安がつきまとう。
福島第一原発は共産主義国で起きた事故ではない。21世紀、情報主義社会下の民主国家で起きた。それでも、ことの成り行きはチェルノブイリとさして変わったようには思えない。国もメディアもほんとうの情報は教えてくれないし、事故はいつまでたっても収束しない、被災された方々は先の展望もなくただ苦しんでいる。
そのあまりの相似が痛すぎる。
美しいアーニャはフランス人の婚約者パトリック(ニコラ・ヴァンズィッキ)にたびたびパリへの引越しを促され、自分でも引越すと口にしておきながらなかなかそれを実行に移すことができないでいる。
住むことのできない故郷に日々通い、自身の肉体の変化に震え、「こんなところで腐りたくない」といいながら、自らその場に背を向けることを極端に恐れているように見える。その感情に理屈はないのかもしれない。今はもういない花婿をただ懐かしんでいるようにも思えない。
それでも彼女の気持ちはなぜかものすごくよくわかるような気がしてしまう。どうしてだろう。
ヴァレリーのりんごの木の詩も、ただ美しく悲しいだけじゃない。けどものすごくよくわかるのだ。
自分ではどうしようもない気持ち。他人にはわかってもらえることはないけど、どうしても一生大切にしておきたい、触れられたくない思い。
たとえ誰にもわからなくても、できるだけ尊重されるべき思いだと思う。
あの事故が、いつどこで誰の身に起きても不思議はないと思うから。ぐりの心に郷土愛が欠けていたとしても。
アーニャが歌う『百万本のバラ』の歌詞が、プリピャチを追われた人々の心情を思わせる。
女優に恋をして百万本のバラを捧げた貧しい絵描き。彼の思いを知ることなく一座は街を去っていく。
愛は二度と戻ってこないが、広場を埋めた百万本のバラは真っ赤に美しい。
事故当時、ウクライナは遅い春の真っ盛り、アーモンドやりんごの花が咲き乱れる、一年で最も美しい季節だった。
例によって黙示録第8章の
「第三の御使 ラッパを吹きしに ともしびのごとく燃ゆる大なる星 天より隕ちきたり
川の三分の一と水のみなもとの上におちたり
この星の名はにがよもぎといふ
水の三分の一はにがよもぎとなり 水の苦くなりしに因りて多くの人 死にたり」が
この映画にも登場する。
“にがよもぎ”がウクライナ語で“チェルノブイリ”と同義であるという説があるが、“チェルノブイリ”とはもともとウクライナ語でよもぎを意味する“チョルノブイリ”が語源であり、「チェルノブイリ原発事故が聖書に記載されていた」という説は英語圏のキリスト教徒の間で信じられている一種の都市伝説である。
だがこの事故が、生命のすべてが一気に萌えはじめる美しい季節に起きたことが、人々をそう信じさせているのかもしれない。
映画の中のウクライナもただただ美しい。悲しくなるほど美しい。その情景も、福島の春に重なる。重ねちゃいけないのかもしれないけど、それでも。
1986年4月26日、プリピャチ。
婚礼の最中に「山火事の消火活動に行く」といい残したまま帰らなかったアーニャ(オルガ・キュリレンコ)の花婿(ニキータ・エンシャノフ)。
原発技師アレクセイ(アンジェイ・ヒラ)は妻子を避難させ、黒い雨が降り注ぐ街で傘を買って人々に配ってまわる。
10年後、アーニャはチェルノブイリツアーのガイドとなり、アレクセイの息子ヴァレリー(イリヤ・イオシフォフ)は廃墟となったプリピャチで父を捜して彷徨う。
チェルノブイリ原発事故で故郷を追われた人々の悲哀を描く。
以前にも書いた通り、ぐりには郷土愛とか郷愁とかそういう感情がまったくない。
子どものころは早く大人になって地元を出ていきたいとしか思っていなかったし、出ていってからも懐かしいと思ったことはない。東京に住んで20年以上だけど、この街にもとくに思い入れはない。生まれてこのかたホームシックにかかったこともない。
だからこそあたたかい郷土愛は美しいと思うし、心底羨ましいとも思う。その場所が紛れもなく自分自身のための唯一無二の場所だと信じられる感覚なのだとしたら、自分には決して手に入らない心持ちだから、憧れる。
逆にいえば、その愛に縛られる苦しみは残念ながらよくわからない。ただの妄執のような気もするけど、かといって同情するのも何か違う気がする。
できることならわかりたいとは思う。わからなくても、受け入れたいと思う。心の底から、純粋に。
2011年製作なので、映画そのものは福島第一原発事故とは関係がない。
でもどうしても、どの場面にも、どの台詞にも、福島の現実を重ねて観てしまう。
それは制作者側の本意ではないかもしれない。だが福島の事故はもう起こってしまった。そして次にいつどこで起こってもおかしくない。好むと好まざるに関わらず、我々はそういう社会に生きている。
チェルノブイリで起こった悲劇の多くは、情報公開されない共産主義体制下で引き起こされたことだと誰もが思ってきた。事故の事実は一般市民には知らされず、危険区域の住民が避難するのに何日もかかった。私物の持ち出しは制限され、ペットや家畜を連れて行くこともできなかった。親しい人々は散り散りに引き離され、避難先では苛酷な差別と健康上の不安がつきまとう。
福島第一原発は共産主義国で起きた事故ではない。21世紀、情報主義社会下の民主国家で起きた。それでも、ことの成り行きはチェルノブイリとさして変わったようには思えない。国もメディアもほんとうの情報は教えてくれないし、事故はいつまでたっても収束しない、被災された方々は先の展望もなくただ苦しんでいる。
そのあまりの相似が痛すぎる。
美しいアーニャはフランス人の婚約者パトリック(ニコラ・ヴァンズィッキ)にたびたびパリへの引越しを促され、自分でも引越すと口にしておきながらなかなかそれを実行に移すことができないでいる。
住むことのできない故郷に日々通い、自身の肉体の変化に震え、「こんなところで腐りたくない」といいながら、自らその場に背を向けることを極端に恐れているように見える。その感情に理屈はないのかもしれない。今はもういない花婿をただ懐かしんでいるようにも思えない。
それでも彼女の気持ちはなぜかものすごくよくわかるような気がしてしまう。どうしてだろう。
ヴァレリーのりんごの木の詩も、ただ美しく悲しいだけじゃない。けどものすごくよくわかるのだ。
自分ではどうしようもない気持ち。他人にはわかってもらえることはないけど、どうしても一生大切にしておきたい、触れられたくない思い。
たとえ誰にもわからなくても、できるだけ尊重されるべき思いだと思う。
あの事故が、いつどこで誰の身に起きても不思議はないと思うから。ぐりの心に郷土愛が欠けていたとしても。
アーニャが歌う『百万本のバラ』の歌詞が、プリピャチを追われた人々の心情を思わせる。
女優に恋をして百万本のバラを捧げた貧しい絵描き。彼の思いを知ることなく一座は街を去っていく。
愛は二度と戻ってこないが、広場を埋めた百万本のバラは真っ赤に美しい。
事故当時、ウクライナは遅い春の真っ盛り、アーモンドやりんごの花が咲き乱れる、一年で最も美しい季節だった。
例によって黙示録第8章の
「第三の御使 ラッパを吹きしに ともしびのごとく燃ゆる大なる星 天より隕ちきたり
川の三分の一と水のみなもとの上におちたり
この星の名はにがよもぎといふ
水の三分の一はにがよもぎとなり 水の苦くなりしに因りて多くの人 死にたり」が
この映画にも登場する。
“にがよもぎ”がウクライナ語で“チェルノブイリ”と同義であるという説があるが、“チェルノブイリ”とはもともとウクライナ語でよもぎを意味する“チョルノブイリ”が語源であり、「チェルノブイリ原発事故が聖書に記載されていた」という説は英語圏のキリスト教徒の間で信じられている一種の都市伝説である。
だがこの事故が、生命のすべてが一気に萌えはじめる美しい季節に起きたことが、人々をそう信じさせているのかもしれない。
映画の中のウクライナもただただ美しい。悲しくなるほど美しい。その情景も、福島の春に重なる。重ねちゃいけないのかもしれないけど、それでも。