『華麗なるギャツビー』
第一次大戦後の好景気に沸くニューヨーク。中西部出身の証券マン・ニック(トビー・マグワイア)は隣家の豪邸で毎週末ごとに開かれるパーティーに招待され、館の主ギャツビー(レオナルド・ディカプリオ)に、ロングアイランドの向かい側に住むニックのいとこ・デイジー(キャリー・マリガン)をお茶によんでほしいと頼まれる。
ふたりは戦前恋仲だったが、ギャツビーが戦後オックスフォードにいる間にデイジーは富豪のトム(ジョエル・エドガートン)と結婚し、娘をもうけていた。
アメリカ文学史が誇る文豪スコット・フィッツジェラルドの傑作を原作に『ロミオ+ジュリエット』『ムーラン・ルージュ』のバズ・ラーマンが史上5度目となる映像化。
5度目だけど一本も観たことないし、今回くらい観てみようかなと思い3Dで鑑賞。
自分で観にいっといてこんなこというのも何ですけど、やっぱあたし3D苦手みたいです。半分くらいで頭が痛くなっちゃって、もう途中からは「はよ終わってくれ」としか思ってなかった。原作も何回も読みまくっちゃってるしさ。
3Dによる錯覚のせいか、シネコンでいちばんおっきいスクリーンなのに画面は小さく狭く見えるし、目の焦点はあいにくいし、画面は暗いし。そもそも3D映画ってそんなに観てないけど、いうほど臨場感ないよね?てかむしろより作り物感・ハリボテ感が強調される気がする。確かに立体感はなんとなくあるけど、だいたいの作品は飛び出す絵本?書き割り?みたい感じ。却ってリアリティが損なわれてる。そもそも全部ちゃんと3Dカメラで撮影してんのかな?してないよね?チープな3D映像は逆に見た目ちゃっちく見えて逆効果だと思うんだけど。
だからぐり的には今のところ3D映像はライドアトラクションや広告、ライブアートのためのテクノロジーであって、総合芸術たる映画のためのものじゃないです。とりあえず。
たぶんこのバズ・ラーマンて人は映画=映像、しかもゴージャスじゃなきゃいけない、みたいな観念が必要以上に強いんだよね。
それはそれで趣味として尊重するけど、そこにこだわるんなら他のディテールも同じくらいこだわってほしいと思うの。
とくにこの原作小説の魅力は、当時の富裕層の無反省に空虚な浪費ぶり─まさに“バブリー”─と、その影にある真実の悲哀とのギャップ、そこから導きだされるカタストロフにあるわけで、どちらか一方だけ頑張っただけでは決して表現できない。ぐりの記憶にある限りでは、原作でもこの両者に置かれるウェイトは半々か、むしろしんどい、イタい部分の方が大きいくらいな印象がある。
それがこの2013年版『ギャツビー』では完全にお留守、おざなり、誰がどう見ても手抜き、という体たらくで(たとえばラストシーンにギャツビーの父は登場しない)、明らかにこれはただただアホみたいに金のかかった大味なアールデコ映像のためだけの映画になっちゃってる。それで世紀の傑作の心髄を感じろといわれましても無理でっしゃろ。象徴的なのが例の「緑色の灯火」の表現。なんかやたらに鋭く眩しい閃光で、もはや色とか距離感とか光の持つ生命観とかどうでもよさげです。明るくすりゃいいってもんではないでしょう。
一応やりたいことはわかるんだけど、これじゃレオさんの熱演があまりに可哀想でむしろ痛々しい。気の毒です。
かと思えば文字通り蛇足なパートまであったり。
この映画は、後年アルコール中毒になったニックが療養所で過去を回想するという原作にない形式になってるんだけど、これ完璧いらなかったです。超わざとらしい。こういうところに労力を割くくらいなら、ギャツビーの過去やデイジーとの出会いの部分に頑張ってほしかったです。
表現したいことを十分に観客に伝えるためにも、ほんとに大切なほかの部分もちゃんとつくりこんで、相対的に世界観を構築して初めて、総合芸術の再現性って達成されるもんじゃないかと思うんだけど、そういう点でこの映画のバランスはとても評価できる完成度とはいえない。
まあここまでゴージャスゴージャスいってますけど、実際映画全体は期待したほどゴージャスでもないです。
セットはけばいし衣装もジュエリーも確かにオシャレだけど、映像としては予告編以上の豪華さはない。ほんの数分かそこらの予告編の豪華さを2時間以上に引き伸ばしてより豪華になるかっつったら、そら数学的に考えて無理ですわね。当たり前の話。
あとこの映画、予告編と本編で使用カットが違いすぎ。本編よりもさらに演出過多な予告編にしたかったんだろうけど、その微妙な違い方が妙に気になって気になってしょうがなかったです。
それと、やっぱしぐりはデイジーのことはどうしたって好きになれないし、この感覚に男女のどうしようもなく絶望的な溝を感じて寂しくなってしまった。
ひたすらおっとりと愛らしく美しく、何事においてもたよりなく主体性のないお嬢様。ひとりでは何もできずどこにもいけないけど、ただ黙ってそこにいるだけで男性をうっとりさせてしまうお姫様。こんな女のために危険な人生を選びとんでもないお祭り騒ぎを延々と繰り返すからこそ、ギャツビーは悲しい。あるいは彼女は、彼の茶番ともいえる悲劇をよりひきたたせるための装置なのだろう。
男性にとってこういう女性ってたまんないんだろうなってことはわかるんだけど、個人的には絶対に友だちにはなりたくない。同席するだけでも超イライラしちゃいそう。こういう意味不明にふわふわした女性って苦手なの。ごめん。
原作には彼女の声をして「それは金にあふれた声だった。高く低く波動する尽きせぬ魅力があった」という独特な表現があって、それだけで圧倒的に納得させられたもんだけど、この映画にはそのセリフもなかったよね。そこも大減点でした。
第一次大戦後の好景気に沸くニューヨーク。中西部出身の証券マン・ニック(トビー・マグワイア)は隣家の豪邸で毎週末ごとに開かれるパーティーに招待され、館の主ギャツビー(レオナルド・ディカプリオ)に、ロングアイランドの向かい側に住むニックのいとこ・デイジー(キャリー・マリガン)をお茶によんでほしいと頼まれる。
ふたりは戦前恋仲だったが、ギャツビーが戦後オックスフォードにいる間にデイジーは富豪のトム(ジョエル・エドガートン)と結婚し、娘をもうけていた。
アメリカ文学史が誇る文豪スコット・フィッツジェラルドの傑作を原作に『ロミオ+ジュリエット』『ムーラン・ルージュ』のバズ・ラーマンが史上5度目となる映像化。
5度目だけど一本も観たことないし、今回くらい観てみようかなと思い3Dで鑑賞。
自分で観にいっといてこんなこというのも何ですけど、やっぱあたし3D苦手みたいです。半分くらいで頭が痛くなっちゃって、もう途中からは「はよ終わってくれ」としか思ってなかった。原作も何回も読みまくっちゃってるしさ。
3Dによる錯覚のせいか、シネコンでいちばんおっきいスクリーンなのに画面は小さく狭く見えるし、目の焦点はあいにくいし、画面は暗いし。そもそも3D映画ってそんなに観てないけど、いうほど臨場感ないよね?てかむしろより作り物感・ハリボテ感が強調される気がする。確かに立体感はなんとなくあるけど、だいたいの作品は飛び出す絵本?書き割り?みたい感じ。却ってリアリティが損なわれてる。そもそも全部ちゃんと3Dカメラで撮影してんのかな?してないよね?チープな3D映像は逆に見た目ちゃっちく見えて逆効果だと思うんだけど。
だからぐり的には今のところ3D映像はライドアトラクションや広告、ライブアートのためのテクノロジーであって、総合芸術たる映画のためのものじゃないです。とりあえず。
たぶんこのバズ・ラーマンて人は映画=映像、しかもゴージャスじゃなきゃいけない、みたいな観念が必要以上に強いんだよね。
それはそれで趣味として尊重するけど、そこにこだわるんなら他のディテールも同じくらいこだわってほしいと思うの。
とくにこの原作小説の魅力は、当時の富裕層の無反省に空虚な浪費ぶり─まさに“バブリー”─と、その影にある真実の悲哀とのギャップ、そこから導きだされるカタストロフにあるわけで、どちらか一方だけ頑張っただけでは決して表現できない。ぐりの記憶にある限りでは、原作でもこの両者に置かれるウェイトは半々か、むしろしんどい、イタい部分の方が大きいくらいな印象がある。
それがこの2013年版『ギャツビー』では完全にお留守、おざなり、誰がどう見ても手抜き、という体たらくで(たとえばラストシーンにギャツビーの父は登場しない)、明らかにこれはただただアホみたいに金のかかった大味なアールデコ映像のためだけの映画になっちゃってる。それで世紀の傑作の心髄を感じろといわれましても無理でっしゃろ。象徴的なのが例の「緑色の灯火」の表現。なんかやたらに鋭く眩しい閃光で、もはや色とか距離感とか光の持つ生命観とかどうでもよさげです。明るくすりゃいいってもんではないでしょう。
一応やりたいことはわかるんだけど、これじゃレオさんの熱演があまりに可哀想でむしろ痛々しい。気の毒です。
かと思えば文字通り蛇足なパートまであったり。
この映画は、後年アルコール中毒になったニックが療養所で過去を回想するという原作にない形式になってるんだけど、これ完璧いらなかったです。超わざとらしい。こういうところに労力を割くくらいなら、ギャツビーの過去やデイジーとの出会いの部分に頑張ってほしかったです。
表現したいことを十分に観客に伝えるためにも、ほんとに大切なほかの部分もちゃんとつくりこんで、相対的に世界観を構築して初めて、総合芸術の再現性って達成されるもんじゃないかと思うんだけど、そういう点でこの映画のバランスはとても評価できる完成度とはいえない。
まあここまでゴージャスゴージャスいってますけど、実際映画全体は期待したほどゴージャスでもないです。
セットはけばいし衣装もジュエリーも確かにオシャレだけど、映像としては予告編以上の豪華さはない。ほんの数分かそこらの予告編の豪華さを2時間以上に引き伸ばしてより豪華になるかっつったら、そら数学的に考えて無理ですわね。当たり前の話。
あとこの映画、予告編と本編で使用カットが違いすぎ。本編よりもさらに演出過多な予告編にしたかったんだろうけど、その微妙な違い方が妙に気になって気になってしょうがなかったです。
それと、やっぱしぐりはデイジーのことはどうしたって好きになれないし、この感覚に男女のどうしようもなく絶望的な溝を感じて寂しくなってしまった。
ひたすらおっとりと愛らしく美しく、何事においてもたよりなく主体性のないお嬢様。ひとりでは何もできずどこにもいけないけど、ただ黙ってそこにいるだけで男性をうっとりさせてしまうお姫様。こんな女のために危険な人生を選びとんでもないお祭り騒ぎを延々と繰り返すからこそ、ギャツビーは悲しい。あるいは彼女は、彼の茶番ともいえる悲劇をよりひきたたせるための装置なのだろう。
男性にとってこういう女性ってたまんないんだろうなってことはわかるんだけど、個人的には絶対に友だちにはなりたくない。同席するだけでも超イライラしちゃいそう。こういう意味不明にふわふわした女性って苦手なの。ごめん。
原作には彼女の声をして「それは金にあふれた声だった。高く低く波動する尽きせぬ魅力があった」という独特な表現があって、それだけで圧倒的に納得させられたもんだけど、この映画にはそのセリフもなかったよね。そこも大減点でした。