『ツレがうつになりまして。』
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売れない漫画家・晴子(宮崎あおい)の夫・幹男(堺雅人)がうつ病になった。
晴子はサラリーマンの幹男を退職させ、自宅で療養させながら漫画を描くが、連載は中止。失業保険だけで生活は成り立たないため、イラストの仕事も始める。幹男の病状は一進一退で、晴子の気持ちにも余裕がなくなっていくのだが・・・。
細川貂々の同名漫画の映画化。
ぐりが初めてうつ病になったのは1995年、23歳のときだ。
今でこそ誰もが知っている病名だが、そのころはまだ誰もそんなものは知らなかった。ぐりは社会人一年目、周りの友人たちも忙しく、妹とふたり暮らしをしていたものの家族らしい関わりはまったくなく、ひとりで、孤独で、寂しく、心細く、とてもとてもつらい闘病生活を送った。
眠れず、食べることも飲むこともほとんどできず、吐いてばかりで精神状態は常に絶望のどん底にいるような毎日。みるみるうちにがりがりに痩せていき、やがて人の話を聞いたり話したりするごく当り前のコミュニケーションにも支障を来すようになり、発病後5ヶ月で退職。就職氷河期の中で死にものぐるいで就職活動をして入社した第一志望の会社を1年足らずで辞めなくてはならなかったときの悔しさは、何年経っても忘れることができない。
投薬治療はろくに効果が出ず、結局は自力で治したが、その後も何度か再発はしている。ただ、自分なりのつきあい方だけはなんとなくわかっているので、再発してもそう怖いとは思わなくなった。怖がっていても、何の解決にもならないことだけは紛れもない事実だからだ。なってしまったものはしかたがない。
そう、なってしまったものはしかたがないのだ。たとえ何もできなくても、誰の何の役にたたなくても、生きていることは何も恥ずかしいことじゃない。
多少何か能力があったとしても、たいていの人間は替えがきく。唯一無二の存在なんかいない。ごくまれに“勝ち組”なんていわれる人がいたとしても、世の中のおおかたの人間は“その他大勢”だ。“その他大勢”でだいたい世の中はまわってる。そのうちのひとりやふたり、調子が悪くたってどうってことはない。“その他大勢”がいない限り、“勝ち組”にだって意味はない。
どんなに悲しくて苦しくても、太陽は昇るし地球は回る。昨日できたことが今日できなくても、呼吸ができて、片足が前に踏み出せたなら、それでじゅうぶんなのだ。
ぐりはそういうことを、ひとりぼっちの闘病の中で経験則から、ひとつずつ発見していった。最終的には医者の力は借りられなかったし、家族の誰とも関わっていなかったから、助けてくれたのは、遠くから静かに見守ってくれた友人や、長年お世話になったアルバイト先の上司など、思いもかけない人たちだった。
彼らが直接的になにかしてくれたわけではない。ただそこにいて、普通に黙って見ていてくれただけだ。特別扱いはされなかったと思う。励ましたりもされなかった。それだけのことがどれほどありがたかったことか。
この映画の主人公は晴子と幹男という夫婦だが、ぐりが経験したようなエピソードがそのままたくさん登場する。味覚がなくなったり、妙にハイテンションになったと思えば、ただただ涙ばかり流れてひたすら悲しくなったり、身体が痛くて仕方がなかったり、異常に眠かったり。
晴子は結婚式での「健やかなるときも病めるときも」というフレーズを思い出して、どんな夫であっても自分のパートナーであることを見失わずにいることの価値と意味を再発見するが、言葉でいうほどそれは簡単なことではない。
誰でも、身近な人が精神の病を得たことにはショックを受けるし、とにかく元通りにしなくてはと考えてしまう。しかし、病気の治療とはそもそも元通りにすることではない。とくに、うつ病の場合は元通りにしようとすればするほどドツボにはまってしまいやすい。
むしろうつ病になる前の過去の状態を、たまたまのめぐりあわせだったというニュートラルな考え方に切り替えて、うつ病になった今の現実だけを事実として受け入れる。うつ病でもできることをひとつずつ評価する。子どもがひとりでトイレに行けたり、服が着られたりすることを評価するように、できること全部にちゃんとプライドをもつのだ。
難しいことではないが、愛だけでは克服することもできない。距離感も必要だし、冷静に客観的に自分や相手を突き放す勇気もいる。映画の中の堺雅人の病人っぷりは情けなくもユーモラスだが、現実にはこれほど鬱陶しい人間はいない。うつ病になりやすいのもはそもそも生真面目で融通の利かないタイプが多い(ぐりもそうだし、幹男もそうだ)。それがコントロールもまったくきかず、ひたすらくよくよめそめそしてばかりいるのだから、周りの人間にしてみればそりゃもうめんどくさい。鬱陶しい。答えなんか簡単に見つかるわけがない。それはそういうものだからと構えて、できる範囲で根気よく向きあっていくよりしかたがない。
晴子は、漫画家という表現者としての立場の中から、そのことに気づいていく。だが彼女の姿勢の中には、普遍の愛がある。どんな幹男も自分の夫であるという、無意識だが確固たる信念が、夫婦を支えている。
うつ病という言葉は知られるようになっても、相変わらず社会の中でうつ病に対する理解が深まっていかないのはなぜなのだろう。
結局は、社会が人間性を、多様性を否定している限りは、うつ病にしてもどんな病気にしても「面倒で厄介なお荷物」以外の意味はないし、そういう社会に待っているのはただの荒廃でしかない気がする。
晴子と幹男はうつ病を抱えて生きていくライフスタイルを獲得するが、これが漫画家という表現者以外の多くの人にも受け入れられ、実践できる社会であるべきではないかと思う。
誰にでもわかりやすい正解だけを全員で寄ってたかって必死で奪いあうだけの生き方はつまらない。だいたいその正解だって、どこかの誰かが勝手にこしらえたつくりものでしかないのだから。
太陽が昇って地球が回る、それだけの奇跡に感謝さえできれば、それでいいじゃないですか。
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売れない漫画家・晴子(宮崎あおい)の夫・幹男(堺雅人)がうつ病になった。
晴子はサラリーマンの幹男を退職させ、自宅で療養させながら漫画を描くが、連載は中止。失業保険だけで生活は成り立たないため、イラストの仕事も始める。幹男の病状は一進一退で、晴子の気持ちにも余裕がなくなっていくのだが・・・。
細川貂々の同名漫画の映画化。
ぐりが初めてうつ病になったのは1995年、23歳のときだ。
今でこそ誰もが知っている病名だが、そのころはまだ誰もそんなものは知らなかった。ぐりは社会人一年目、周りの友人たちも忙しく、妹とふたり暮らしをしていたものの家族らしい関わりはまったくなく、ひとりで、孤独で、寂しく、心細く、とてもとてもつらい闘病生活を送った。
眠れず、食べることも飲むこともほとんどできず、吐いてばかりで精神状態は常に絶望のどん底にいるような毎日。みるみるうちにがりがりに痩せていき、やがて人の話を聞いたり話したりするごく当り前のコミュニケーションにも支障を来すようになり、発病後5ヶ月で退職。就職氷河期の中で死にものぐるいで就職活動をして入社した第一志望の会社を1年足らずで辞めなくてはならなかったときの悔しさは、何年経っても忘れることができない。
投薬治療はろくに効果が出ず、結局は自力で治したが、その後も何度か再発はしている。ただ、自分なりのつきあい方だけはなんとなくわかっているので、再発してもそう怖いとは思わなくなった。怖がっていても、何の解決にもならないことだけは紛れもない事実だからだ。なってしまったものはしかたがない。
そう、なってしまったものはしかたがないのだ。たとえ何もできなくても、誰の何の役にたたなくても、生きていることは何も恥ずかしいことじゃない。
多少何か能力があったとしても、たいていの人間は替えがきく。唯一無二の存在なんかいない。ごくまれに“勝ち組”なんていわれる人がいたとしても、世の中のおおかたの人間は“その他大勢”だ。“その他大勢”でだいたい世の中はまわってる。そのうちのひとりやふたり、調子が悪くたってどうってことはない。“その他大勢”がいない限り、“勝ち組”にだって意味はない。
どんなに悲しくて苦しくても、太陽は昇るし地球は回る。昨日できたことが今日できなくても、呼吸ができて、片足が前に踏み出せたなら、それでじゅうぶんなのだ。
ぐりはそういうことを、ひとりぼっちの闘病の中で経験則から、ひとつずつ発見していった。最終的には医者の力は借りられなかったし、家族の誰とも関わっていなかったから、助けてくれたのは、遠くから静かに見守ってくれた友人や、長年お世話になったアルバイト先の上司など、思いもかけない人たちだった。
彼らが直接的になにかしてくれたわけではない。ただそこにいて、普通に黙って見ていてくれただけだ。特別扱いはされなかったと思う。励ましたりもされなかった。それだけのことがどれほどありがたかったことか。
この映画の主人公は晴子と幹男という夫婦だが、ぐりが経験したようなエピソードがそのままたくさん登場する。味覚がなくなったり、妙にハイテンションになったと思えば、ただただ涙ばかり流れてひたすら悲しくなったり、身体が痛くて仕方がなかったり、異常に眠かったり。
晴子は結婚式での「健やかなるときも病めるときも」というフレーズを思い出して、どんな夫であっても自分のパートナーであることを見失わずにいることの価値と意味を再発見するが、言葉でいうほどそれは簡単なことではない。
誰でも、身近な人が精神の病を得たことにはショックを受けるし、とにかく元通りにしなくてはと考えてしまう。しかし、病気の治療とはそもそも元通りにすることではない。とくに、うつ病の場合は元通りにしようとすればするほどドツボにはまってしまいやすい。
むしろうつ病になる前の過去の状態を、たまたまのめぐりあわせだったというニュートラルな考え方に切り替えて、うつ病になった今の現実だけを事実として受け入れる。うつ病でもできることをひとつずつ評価する。子どもがひとりでトイレに行けたり、服が着られたりすることを評価するように、できること全部にちゃんとプライドをもつのだ。
難しいことではないが、愛だけでは克服することもできない。距離感も必要だし、冷静に客観的に自分や相手を突き放す勇気もいる。映画の中の堺雅人の病人っぷりは情けなくもユーモラスだが、現実にはこれほど鬱陶しい人間はいない。うつ病になりやすいのもはそもそも生真面目で融通の利かないタイプが多い(ぐりもそうだし、幹男もそうだ)。それがコントロールもまったくきかず、ひたすらくよくよめそめそしてばかりいるのだから、周りの人間にしてみればそりゃもうめんどくさい。鬱陶しい。答えなんか簡単に見つかるわけがない。それはそういうものだからと構えて、できる範囲で根気よく向きあっていくよりしかたがない。
晴子は、漫画家という表現者としての立場の中から、そのことに気づいていく。だが彼女の姿勢の中には、普遍の愛がある。どんな幹男も自分の夫であるという、無意識だが確固たる信念が、夫婦を支えている。
うつ病という言葉は知られるようになっても、相変わらず社会の中でうつ病に対する理解が深まっていかないのはなぜなのだろう。
結局は、社会が人間性を、多様性を否定している限りは、うつ病にしてもどんな病気にしても「面倒で厄介なお荷物」以外の意味はないし、そういう社会に待っているのはただの荒廃でしかない気がする。
晴子と幹男はうつ病を抱えて生きていくライフスタイルを獲得するが、これが漫画家という表現者以外の多くの人にも受け入れられ、実践できる社会であるべきではないかと思う。
誰にでもわかりやすい正解だけを全員で寄ってたかって必死で奪いあうだけの生き方はつまらない。だいたいその正解だって、どこかの誰かが勝手にこしらえたつくりものでしかないのだから。
太陽が昇って地球が回る、それだけの奇跡に感謝さえできれば、それでいいじゃないですか。
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