最近、ヒマさえあればYouTubeばかり見ている。
ほんとうは読みたい本や観たい映画もたくさんあるのだが、現状、ある事情でそれがなかなか難しい。YouTubeなら観ていて飽きればすぐに他のコンテンツに飛べるしやめたければその場でオフにできるから便利だ。
ジャンルは何でもありでいつだかASMRばっかり観てたときがあったけど、いまは動物かものづくり系、もしくはVlogか音楽系。毒にも薬にもならないやつだ。
少し前に「10年ぶりにCDを買った話」という記事でYouTubeで出会った小林私というシンガーソングライターの話題に触れたが、彼はこの春に多摩美術大学を卒業している。生配信動画でもちょくちょくそのことに言及しているし、連載しているコラムでも2回にわたって書いている。
たぶん、小林私の音楽や彼の音楽との向き合い方や価値観に、世代がまったく違う私が妙に共感するのは、私も美大出身だからかと思う。それよりも前に、妹に勧められて「かくかくしかじか」(東村アキコ著)を読んだときにもなんとなく、「やっぱりそうだよな」と思った。
「かくかくしかじか」は著者が美大受験の画塾に通い始めてから漫画家になるまでを描いたコミックエッセイなのだが、アキコは受験が無事に終わって進学し卒業し漫画家になってからも、折に触れては画塾の先生を思い出し、いまの自分がしていることに後ろめたさのようなものを感じている。
その感覚に、ものすごく共感した。読んでいて懐かしくなった。全体のトーンはギャグ漫画に近いのに、ときどき、涙がでるくらいせつなかった。
というわけで今回は美術と私の話です。
私は4歳のとき、隣町のお絵描き教室に通っていた。週に1回、一人で描いたりグループで描いたり、やることは毎回違ったが、よく覚えているのは、私が生徒の中で最年少だったことだ。他の子はみんな小学生以上だった。
なぜなら、他の生徒が課題を与えられて机に向かっている間、私だけ「好きな絵を描いていいよ」と画材だけ渡されて自由に絵を描かせてもらっていたからだ。おそらく、その教室の対象年齢は小学生以上だったのだろう。
通っていた期間は長くはなかった。母の日に他の生徒が母の絵を描いて、授業終わりの時間に迎えにきた母親たちにプレゼントしていたのに、「母の絵を描く」という課題をもらっていなかった(知らなかった)私が自由に描いたおとぎ話の絵を目にした母が激怒してやめさせられたのだ。
そのとき「ああ私はこの人とはずっとわかりあえないだろうな」と思ったのを強烈に記憶している。私は、そういう嫌な子どもだった。
お絵描き教室はやめたものの、母は私の絵に執拗に干渉し続けた。自身が絵が好きでその道に進みたかったという叶わなかった夢を娘に託すという、よくある話である(両親の実家は極貧だった。いつだか過去記事に書いた気がするので今回は割愛)。
学校の課題で描く絵やポスターなど、自宅で描くものに彼女が口を出さないことはまずなかった。だが私も決して従順な子どもではなかったから、母が望むような絵を描くことをわざと避けたり、描いている絵を隠したり、極端に変わった画風で描いたりもした。そのたびに収拾のつかない修羅場になる。描いたばかりの絵を衆人監視の中でズタズタに破り捨てられたり、受賞作品の展示会場で「銅賞なんか獲って恥ずかしくないのか。なんで金賞じゃないの。よくもしゃあしゃあと生きていられるものだ」などと叱り飛ばされたのは一度や二度ではない。それをわかっていながら反発せずにいられなかった。
いま思えば母本人だってそんなことやってたら相当疲れるに違いないのに、休みとあらば小学生の私を美術展巡りに連れまわし、写生会やコンクールがあれば参加させていた。我が親ながら並大抵の根性ではない。
だから、高校進学の際に美術科のある高校や高専を受験するよう親に勧められたときは死ぬ気で抵抗した。そんなところに行ったらそれこそ一日24時間、一年365日干渉されるに決まっている。自分のメンタルがもつわけがないことくらい子どもにでもわかっていた。
考えた私は、通学区域内で進学率最上位にあたるいわゆる名門校に進学するという名目で、美術科方面を回避した。もちろん必死で猛勉強した。睡眠時間は一日3〜4時間、学校から帰宅して一旦寝て8時か9時ごろ起きて入浴、それから朝までラジオを聴きながらリビングで勉強していた。自室には本や漫画が目につくところにあって集中できないからだ。おかげで担任には「合格ラインぎりぎり」といわれ模試でも良くてB判定だった第一志望に合格することができた。
そのせいか入学直後の実力テストで学年3位をとり、自分も含め両親もものすごくびっくりした(後から聞いたが内申書の評価と差がありすぎて職員室中教師全員が驚いたという)。その後は授業中寝てばかりいたので推して知るべしである。
進学校なので2年になるとさっそく進路の話になる。
私は本が好き(こないだの記事にも書いた)で物書きになりたかったので文学部志望だったのだが、母はやはり美術系に進ませようとあれこれ干渉してきた。そこへ降って湧いたのが、従兄の就職失敗の話だった。
ちょうどそのころ、大卒の2人の従兄が就職差別の憂き目にあっていた。大学は別だが同学年でどちらも日本全国誰でも知っている有名大、2人とも品行方正な優等生で見た目もなかなか、就職活動も順調だった。内定したのもどちらも一部上場の著名な大企業である。そこまではめでたかった。だが蓋を開けたら、彼らは入社直後に揃って子会社に出向になった。しかも新人研修の前に。私の知る限りで、彼らはその後一度も本社配属にはなっていない。
理由はわからない。だが彼らが在日コリアンだという出自が、その人事にまったく関係なかったとは誰にもいえないと思う。いつの間にやらコンプライアンスがやたら厳しくなったいまなら違うかもしれないが、昭和末期の話だ。あり得なくはない。
そこで私は考えた。
ちょうどバブル期真っ只中、日本中が異常な好景気に浮かれていたそのとき、私も自営業の両親も「これはおかしい。こんなのいつまでも続くわけない」という危機感をもっていた。私が大学を出て就職するころには、このロクでもないお祭り騒ぎは終わっている可能性が高い。
高校生活できるだけ目一杯遊び倒したおかげで、国立を狙えるほどの学力がなかった私が私立の文学部に進学したとして、就職するころに景気が悪化していたらどうなるか。人口が最も多く受験も就職も熾烈な競争率を争う世代にいながら、向上心も競争心もない上に在日コリアンというハンデをもつ私が、掃いて捨てるほどいる私学文系の同級生たちに就職で勝てる見込みはほとんどないに等しい。
ということは、社会に出る以前に同級生とは違うキャリアを獲得していなければ、大卒にも関わらず経済的に自立した社会生活が不可能になるリスクがある、ということだ。
いちばん手っ取り早いのはずっと親が勧めていた美術の道だった。資金なら喜んで出してもらえる。遠方の美大に入って実家を離れれば、親の干渉からも解放される。
文学を学びたいという夢をすっぱり諦めるには少々時間はかかったが、最終的には有名美大を出て就職差別なんかない分野で成功すると目標を定め、高2の終わりから隣町の画塾に通い始めた。
先述の「かくかくしかじか」でも描かれているが、最初の課題は石膏の幾何形態の鉛筆デッサンである。暗幕をぴったり閉じて天井の照明で煌々と照らされた真っ白けの直方体とか円錐を、延々と長時間かけて描かされる。できたと思って講師に見せるとあれこれと誤りを指摘され、やり直させられる。確か最初のデッサンには31時間かかった。画塾の授業は土曜と水曜が3時間、日曜日が6時間だから、半月以上1枚のケント紙に向かいあっていたことになる。
それが終わったら、今度は円柱と立方体、そのあとは球体と四角錐。そんな具合でくる日もくる日も白い物体を2ヶ月ほど描き続けた。その後は、ティッシュの箱と缶ジュース。次がソフトボールと煉瓦。色やら柄はついたけど、幾何形態には違いない。
そんなの描いてて楽しいか?と誰もが疑問に思うだろう。
もちろん楽しくはない。1ミリも。講師だって厳しい。座っている椅子の脚を思いきり蹴飛ばされ、大声で「なぜ指導した通りに描かないのか」「モチーフを全然見てない」「やる気がないなら帰れ」と怒鳴りまくられ、講評(課題日程が終わって、壁一面に各々の絵を並べて点数をつけられる。要は公開処刑である)だってボロクソだった。一番の子はかろうじて褒められる。二番以下は全員酷評だった。あまりの罵詈雑言に泣く子もいる。泣いたって「泣いて志望校に合格するなら好きなだけ泣け」といわれる。
それでも慣れというのは恐ろしいもので、そこまでのスパルタ指導を受け続ければ、嫌でも己れの置かれた状況に客観的にならざるを得ない。これだけやっても美大に合格できるかどうかわからない。昨今のように受けさえすればどこかの大学に入れるという時代ではない。生き馬の目を抜く激戦の受験戦争を勝ち抜くには、生半可な態度ではその入り口にすら臨めないのだ。現に途中で脱落する子もいた。
体育会系の鬼指導の賜物か私はめでたく地方の美大に合格したが、そこは本来進学したかった大学ではなかった。有り体にいえば、私が行きたかったのは、あくまで「就職に有利なブランド力のある美大」だった。だがその「ブランド」大学は通っていた画塾の指導方針にあわないといった理由で受験できなかった。講師には「どこの大学に行くかは問題ではない。そこで何をするかが重要だ」と説得されたが、結局私はその地方美大を蹴り(この前後の事情はややこしいので省略する)、1年で志望校に合格することを必須条件に片道2時間かかる都市部の大手美術予備校に転校した。合格実績でいえば田舎の画塾とはまったく比較にならない。
となると当然指導方法がガラッと変わる。それまでは鉛筆デッサンと水彩画と色面構成を中心に描いていたのが、木炭デッサンと油彩画になった。ゼロからのスタートである。木炭デッサンはさほど苦労することなく描けるようになったが、問題は油彩画である。見た通りに描いてもまったく評価してもらえない。「何を描きたい」「どう表現したい」という個性がなければ、入試の採点時に試験官の目を引くことができず振るい落とされてしまう。当時のいわゆる「ブランド」美大の受験倍率はだいたい10〜40倍以上。上手いのは当たり前、かつ目立ってナンボである。
講師は先輩が何をどう表現しようとしているのか観察しなさい、参考作品や歴史上の巨匠の画風を研究しなさいと教えてくれたので、しばらく私はモチーフから一番遠い後ろの席から、多浪の中でも講師の評価が高い学生の描き方を一人ずつ眺めて技法を真似したり、資料室の画集を端から借りては舐めるように見て、盗める要素がないか探し回った。
その美術予備校には現役生のクラスもあった。つまり私と同じクラスの一浪学生は全員、高校生のころから同じ指導を受けていた。とすれば彼らと同じように描いていても追いつくことはできない。
私は朝5時に家を出て始発に乗って登校し、予備校が開館する7時に石膏室(デッサン用の全身サイズの石膏像が展示してある)に入ってクラスが始まる9時までそこでデッサンを描き、夕方5時にクラスが終わればまた石膏室に戻って閉館の8時まで描くという自主練をした。道頓堀の笹部という画材屋(安い)まで買い出しに行く日と遠距離恋愛中だった彼氏と会う日以外は毎日ずっと、自主練を続けた。帰りの駅や電車内では他の乗客を観察してクロッキー(速写画)を描いた。1年でクロッキー帳を20冊以上消費したと思う。
予備校の講師もやはり厳格だった。東京芸大出身だから(その予備校の講師は全員東京芸大卒の画家)学生に求める作品のクオリティが滅茶苦茶高い。妥協はいっさい許されない。「お前いまこんなの描いてて芸大に受かるわけないだろう」というのが定番のセリフだった。そこの学生は全員東京芸大を受験することが決められていた。分相応な志望校を目指している程度では、他の美大であれ本番までに合格できる実力が身につかないからだ。予備校の課題といえど、本気でプロの画家として認められるだけの絵を描くことが要求された。授業をサボる学生は二度と講師から声をかけられなくなる。手を抜いたことがわかれば(当然わかる)講評すらしてもらえなかった。
斯くして私のスパルタ受験延長戦は現役時代よりもさらに過酷になった。
それでも、2年余りの画塾・予備校時代は、私の一生にとって貴重な時期になった。
あれからもう長い月日が経ったけれど、あのとき私は、絵の勉強だけではなく、その後の人生を豊かにする価値観を、世界観を広げる経験を数えきれないくらいしたし、そのひとつひとつが、いまでも私という人間を支えている。
人が生きているということ、命が脈打っていること、それそのものが美しいこと。人と違う個性があることがどれほど幸運かということ。
生活の中で目にするもの、手にするものの形のすべてに意味があって、デザイナーがいて、設計者がいて、利便性や機能性が計算されていること、観察すればするほどどんなものにも「楽しさ」と「物語」を発見できること、そんな蘊蓄は脇に置いておいても、この世界に溢れるすべてのものに「美しさ」「尊さ」があること、どんな日にもその日にしかない巡りあいがあること、見逃してしまったら二度と出会えないこと。
受験期という厳しい状況下にいても、16〜20歳という人格形成にとってたいせつな時期を、少しでも豊かに、意義あるものにしてほしいと、先生たちは願ってくれていたのだろうと思う。
1年の浪人を経て、私は無事「ブランド」美大のひとつにどうにか合格し、家を離れることができた。正直いってまぐれだったといまだに思っている。だがそれはそれとして、自分自身ではベストを尽くせたと思う。
問題は入学した後だった。
入学したのは油絵科だったのだが、授業内容が予備校とほぼ同じだったのだ。校風として他校よりアカデミックだということは知っていたが、それでも画塾や予備校でさんざんやり尽くした石膏デッサンや裸婦像をまたやたらに時間をかけて描かされるのが無駄のような気がしてしょうがなかった。
おまけに、私は自分が絵を描くのが好きではないことに入学直後に気づいてしまった。課題やテストや誰かの依頼など、何か対外的な目的があればいくらでも描けるのに、「自分で描きたいものを描いて」といわれると頭が真っ白になってしまう。描きたいものなんか何もないからだ。
一時はせっかく苦労して入った大学を辞めることまで真剣に考えたが、親しかった先輩の助言もあって、入学できたのなら大学でできることを全部やり尽くそうと考え直し、まず写真を勉強し始めた。バイト代を貯めて一眼レフを買い、モノクロ写真(この辺りのことは前回書いた)を撮って自分で現像し、手づくりの印画紙にプリントする作品をつくるようになった。3年で専門課程に分かれるときには版画専攻を選択した。その大学の版画専攻の規模が当時世界レベルで、海外からも版画関係者が頻々と視察にくることを知ったからだ。同じ学費や設備費を払うのならより費用対効果の高いクラスに進んだ方が得だと思った。実をいえば版画にはまったく興味はなかった。我ながらつくづく腹黒すぎると思う。
版画クラスは予備校並みのスパルタコースだったが、その傍ら紙漉もやり始めた。版画は版画紙(いっぱい種類がある。そして高価である)をたくさん消費する。いうまでもないが紙によって刷り上がりの質感や発色が異なってくる。その紙を、買うのではなく自分でつくって「紙からオリジナル」の版画を刷ろうと思ったからだ。
一口に写真やら紙漉やらいっても、実際やるのは楽ではない。費用も手間も半端ではない。2年生からは年に1回、自分で個展まで始めた。
私は大学4年間で20種類以上のアルバイトをし(何軒か掛け持ちして目標額に達したら辞めて、お金が足りなくなるとまた掛け持ちした)、朝は5時から働くか、シフトに入ってない日は同じ時間に登校して寝ている守衛さんを起こして工房の鍵を借り、夜は工房が閉まる8時まで制作していた(有機溶剤=危険物を使用するので夜間は工房は使用できない)。
周囲からすれば何をそんなに必死に頑張らなきゃいけないのか、奇妙に見えただろうということは自覚している。
でも私には、誰にも理解されないハンデがあった。在日コリアンだとしても、就職で、明らかに他の学生の誰よりも幅広い経験を積んでいると認めてもらえるだけのことを、4年の間に実現しなくてはならないと思っていたのだ。
結果からいえば、私は4年の初めには内定をとり、第一志望の企業に入社することができた。
バブル景気は私が大学に入った年に崩壊して、有効求人倍率が数十年ぶりに1を割り、3年時にはすでに就職氷河期が始まっていた。高校生のころに危惧していた通りのシナリオである。景気が良くても悪くても美大のファインアート系は就職に有利でないことは周知の事実だったが、終わってみれば就職活動にはさほど苦労しなかった気がする。
社会人になってからも、いろいろなことがあった。素敵な経験もたくさんしたし、悔しかったこと、理不尽なことも数えきれないくらいあった。
ひとつだけいえるのは、田舎の高校生だったころには一欠片も想像もしなかったくらい、私の世界観は大きく広がり、人生は豊かになった。いままでいくつもの分かれ道があって、毎回重大な選択を迫られてきたけど、振り返ってみて後悔するような選択は一度もしていない。
そういう生き方ができたのは、あのころ、プロの芸術家に全身全霊で精一杯指導してもらえた受験期の体験があったからだと思う。
生きるということは、他の誰でもない自分自身との戦いで、何が良くて何が間違っているか決めるのも自分で、結果がどうあれ自分で納得できる成果を得るためには誰にも負けない努力が必要不可欠なことを、先生たちは身を以て教えてくれていた。彼らに対して恥ずかしくない生き方を、常に意識していた気がする。
そのことには、大学に入ってからいままでずっと感謝しているし、これからもずっと感謝し続けると思う。
そして、何かに感謝できるということはとても幸せだということも、彼らに教わったことのひとつだと思っている。
美大を卒業する直前、クラスメイトといっしょにギリシャとイタリアに行った。初めての海外旅行だった。
受験生時代から何度も何度もモチーフとして数百時間見つめ続けてきた古代ギリシャ・ローマ時代・ルネサンス期の美術に直接感謝しに行きたかったからだ。
3週間毎日毎日ひたすら遺跡と美術館と教会を廻り、一夜漬けで覚えたギリシャ語とイタリア語で地元の人々と交流したあの旅の間、画塾や予備校や美大でお世話になった先生や同級生たちと過ごした濃密な時間が、少しずつ遠くなり、じわじわと扉が閉じていくのを感じていた。
もう二度と戻れない。
だからこそあの時間は、かけがえのない、一生の宝物なのだ。
最新の画像[もっと見る]
- 泣きたくても泣けない人に 10ヶ月前
- 茶番劇─その後 1年前
- 守らない人々 1年前
- 鏡の向こうの悪魔の素顔 1年前
- 塔をめぐる冒険 1年前
- 悲しかったこと 1年前
- 生ける芸術が見ていた風景 3年前
- 10年ぶりにCDを買った話 3年前
- てがみをください 5年前
- 大雨のあとで 5年前
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます