落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

巴金著『家』

2005年07月12日 | book
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中国・四川省成都生まれの文豪・巴金の初期代表作にして『春』『秋』へと続く三部作の一作目。
時代は20世紀初頭、舞台は著者の故郷成都の資産階級の大家・高氏。主人公はこの家の後継の覚新・覚民・覚慧と云う仲の良い三兄弟。
3人の家は4世代が同居する大家族。家長は彼らの祖父だが、その長子である兄弟の父が早世したため覚新は若くして学業の道を断念し後継としての重責を担うことになった。覚民は旧社会の逆境の中で従妹・琴との愛を貫こうとし、覚慧は新しい外の世界へ羽ばたこうとする。
中国における旧社会の終焉と新時代の門出の物語の序章とも云える小説。

ちょっと前に、ある骨董店で纏足用の履物を見たことがある。
お店の人の話では1900年代の品だと云うそれは、淡いブルーの極上の絹に繊細華麗な刺繍が施された非常に美しいものだったけど、サイズにすれば15センチ足らずなのに異様に甲高なその形が、豪奢な装飾と相反してひどく凄惨なものに見えた。
値段としては買えないものではなかったし正直云ってちょっと欲しかったけど、それをつくった人、履いた人(あるいは履くつもりだった人)のことを思うと、その品をただの装飾品として買う気持ちにはとてもなれなかった。

小説の背景に五四運動(1919年)が出てくるので、たぶんその前後の話だと思います。中国ではその8年前に辛亥革命で清王朝が倒され、既に時代は民主化の道を着々と進んでいた。その波は一地方都市の大家庭に何年もかけてたどり着き、その狭間に立つ兄弟の運命を分けていく。
3人の性格は実はとてもよく似ています。物質的・文化的に恵まれた家庭環境に生まれ大切に育てられた兄弟は、3人ともあくまで素直で純粋で優しく、人を疑うと云うことを全く知らない、清らかで美しい心の持ち主です。鋭敏ではないが愚鈍ではない。決して強くはないけれど弱くもない。早くに父母を失い兄弟だけを味方に成長したために、常に互いを思いやりいたわりあう、仲の良かった兄弟は、それぞれの立場の違いと課せられた試練ゆえに、やがて別々の道を歩みだす。
覚新は愛してくれた両親への敬慕の念から、また周囲を傷つけまいとする優しさから自ら望んで家庭の犠牲になろうとする。しかし彼はその優しさこそが彼自身に最も大切なものを傷つけ貶めることに気がつかない。いつもいつも、とりかえしのつかない結果を招いてしまって初めて自分の愚かさと無力さを呪い、ただ泣く。
覚民は恋人の愛によって勇気を得、兄の轍を踏むまいと自己を主張する。彼は自分にとって何がいちばん大切かをよく知っている。そしてまた、自分の環境が絶対無二のものではないことも知っていた。
覚慧はまだ若く幼いがゆえに最もまっすぐで最も情熱的である。彼の全人格を打ちのめした悲劇─彼は生涯それを忘れることはないだろう─によって覚醒し、理想への道をまっしぐらに突き進んでいく。彼には何も恐れるものがない。恐れるべきものが自らの心の中にしか存在しないことを、彼は身をもって知らされたのだ。

物語は主に末弟覚慧の視点で描かれますが(※この小説は著者の自伝的な物語で覚慧に巴金自身が投影されているので)、主人公はこの3人です。
それにしても中国の大家族ってスゴイです。とりあえず家がスゴイ。家の中に花園があって湖水があって水楼があるんだよ。家の中で花火あげたり舟遊びしたりするんだよー。すげー。
そして上下関係や迷信やしきたりにがんじがらめに縛られた生活。コレが封建社会ってもんなんでしょーが、ほんとに大変そうです。てゆーかなんでこんなにもツライものが何世代も何世紀も受け継がれてたんだろね。意味不明です。
だってたとえばこの物語の中でも、大人が勝手に子どもたちの縁談を決めたり学業をやめさせたり、人を家畜のように売り買いしたりするけど、その大人にだって若い時には思うようにいかなくて悔しい思いをしたり叶わぬ恋に泣いたりしたことがあったはずです。間違いなく、人間誰にだってそんな時がある。それなのに、自分の子どもや孫に対しては親身に気持ちを思いやろうとはしない。纏足だってそうだ。この物語にはもう纏足をしていない女性も登場するけど、あんなひどいことがどうして何世紀も続けてこられたのだろう。母は自分が痛かったことを、どうして娘に強いたのだろう。自分が結婚した時の悔しさや辛さを、なぜ娘の将来には重ねあわせないのだろう。過去に累々と積み重ねられてきた先達の犠牲と涙を、なぜ誰も顧みようとしなかったのだろう。
それは何も中国に限ったことではない。どこの国でも、古い時代には似たような残酷なことが世代をこえて受け継がれていたのだ。一体なぜなんだろう。

結局人は忘れる動物だということだろうか。
ぐり自身だって、覚民や覚慧の年頃には彼らのような淡く切ない恋をしたものだけど、今この物語を読んでも既に彼らに共感はしない。むしろ、祖父や叔父たちに虐げられ弟たちには弱虫と罵られる長兄・覚新に共感してしまう。とにかくことをまるくおさめ、敵をつくるまいとして、誰にも反抗せず我を通さず、ひたすら家の中で忍従と屈従の日々を生きる惰弱な若者。被害者ぶって泣いてばかりいるけれど、悪い人ではない。どこまでも善良で誠実ではあるのだが、同時にほんとうに守るべきものすら知らない、愚かな人。あらゆるものが、自然に指の間をすり抜ける砂のように、ひとつまたひとつと彼から奪い去られていく。彼の苦しみが彼自身で求めたものであることが、どの時代の誰にとっても哀れを誘う。
いじらしいほど愚直な彼に比較すれば、覚民はいささか要領が良過ぎるし、覚慧は特に後半はまるで全てを見通したかのように超然とし過ぎているように見える(これはおそらく著者がモデルとなった親族に配慮して個人攻撃ととられかねない表現を極力排除しようとしたためと思われる)。
弟たちとは違い我が身の行く末をおぼろげに悟りつつも新時代へ出て行こうとはせず、家の中の不幸にのみ生きる覚新の姿は、この先そう遠くはないであろう崩壊の幻影に重なり悼ましい。いずれにせよ、この兄弟の成長と別れに支払われた犠牲─主に覚新の─は必然であり、おそらく広い中国でその時代無数に演ぜられた悲劇のひとつでしかないのだ。
物語の後半、家長である兄弟の祖父が覚慧を呼んで「おまえはいい子だな」と云う。彼は最期の時になって初めて、かたくるしいしきたりとうわべだけの権威に守られた家長制度よりも、本当に自分の気持ちを伝えよう、分かりあおうとする血の通った家族関係の価値の大きさをようやく知る。「いい子だ」と云う、単純だがなつかしいひとことの限りないあたたかさが、肥大化した家庭のつめたい荒廃を逆説的に強調するように響く。

物語は悲しいけれど、美しい情景描写やクールな視点、情感豊かな心理描写など変化に富んだ文体で読むものを決して飽きさせない、非常によく書けた小説です。正直こんなに面白いとは思わなかったです。ぐりはあんまり中国文学って読んでないんだけど、こういう豊かな文体の小説があるとは知らなかった。無知でずびばぜん。
ドラマで劉燁(リウ・イエ)が予定されていたのは長兄・覚新役。泣いてばっかし&めちゃめちゃ可哀想なおにーちゃん。たぶん世の中的にはこの話の主人公って末弟・覚慧だと思うんだけど、あえて主役を覚新にもってくるってとこがやっぱだめんず好き・關錦鵬(スタンリー・クァン)だよなぁ(笑)。泣き虫劉燁もちょっと観てみたかったけど、ボツったんならしょーがない。またなんかいい企画でもたてて、是非懲りずに劉燁で撮って下さい。
この兄弟がその後どうなったのか、続きの『春』『秋』も読みたいけど日本じゃどーすれば読めるんだろー。『家』も既に絶版だったしな(図書館で借りた)。誰かご存知の方おられましたらご教授下さいませ。

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