落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

『校門の時計だけが知っている─私の[校門圧死事件]』細井敏彦

2004年05月19日 | book
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1990年7月に兵庫県内の公立高校で起きた“女子高生校門圧死事件”の加害者である教諭の手記。
事件当時ぐりは高校を卒業したばかり、同じ兵庫県内に住んでましたが、さしてショックを感じなかった記憶があります。いつか必ず起こるだろう事故が、なりゆきのままに起きただけじゃないかと。
亡くなった女子高生や加害者となってしまった教諭には不運ではあったろう、不幸な事故だと思う。ただ、防ごうと思えば誰にでも防げた筈なのに、誰もそうはしないまま微妙なミスがしんしんと積み上げられていった結果起きた事件ではないかと、ぐりは今もそう思っています。

ぐりが兵庫県内の公立の学校に通ったのは1978年から1990年(昭和53年から平成2年)。ちょうど校内暴力とイジメが深刻な社会問題になっていた頃でした。
他の地域がどうだかよく知らないけど、兵庫の地域性にはいわゆるコンサバティブな傾向が強く、学校の態度も権威的高圧的な面が多々ありました。まだ子どもの人権、プライバシーと云う考え方も充分には浸透していなかった時代でした。
ぐりが当時の学校に抱いたイメージは“刑務所”。内申書と云う錦の御旗のもとに子どもたちを平伏させ囚人か家畜を扱うような管理を一方的におしつける、それがぐりにとっての学校でした。
特にそのイメージが強かったのは小学校、中学校です。無意味に微に入り細にわたる校則、当然のように暴力をふるう教師、強制的に入部させられ無茶苦茶にシゴかれる部活動。勿論中には好ましい先生もいたし、みんなそれぞれに一生懸命やってたんだろうとは思う。でも、十代前半の子どもにさえ「大人にとって都合の良い扱いやすいだけの“良い子”と云う名のバカを大量生産する工場」としか思えない、そんな学校教育が兵庫の“トラディショナル”でした。

ぐりはそんな小中学校生活がどうしてもイヤで、高校は比較的自由な校風と云う評判の進学校に入学しました。当然そのために猛勉強しました(受験前の半年で一日12時間←学校・塾の授業を除く)。何が何でも“刑務所”に進学したくないばかりに(笑)。
お陰様でぐりの高校生活はバラ色の3年間でしたが、この事件のあった学校はバリバリの“刑務所”系だった。
兵庫の公立高校は当時は偏差値輪切り制で、つまり各校区内で学力順に進学先が分かれるようになっています。生徒の管理体制は学力・進学率に反比例して進学校は管理が緩やかで、そうでない高校は“刑務所”系となる。事件のあった高校はその校区ではほぼ最下位だったそうです。

この本で教諭は一切自分の非を認めていません。自分は勤勉で誠実で教育熱心な教師である、事件後も教え子や同僚の信頼を集めるまっとうな人間である、と云う主張にひたすら終始しています。
確かに立派な先生だったんだろうと思う。でなければこれだけ感動的な手紙を何通も教え子から送られたりはしない。それは認める。
しかし何通素晴しい手紙を受取ろうと、彼がひとりの人間を、それも教え子を死なせたと云う事実に変わりはない。
彼が同僚や教育委員会やマスコミや検察の非を細かに挙げれば挙げるほど、自らを声高に弁護すればするほど、亡くなった生徒や傷つけた人々に対する誠意は薄れ、彼本人の人間の命に対する認識の異常さが印象に強くなっていく。

こんな人が教師になったことが間違いのもとだったんだと、ぐりは思います。
彼だけが悪かった訳ではないと思う。校長にも、他の教師にも問題意識がなさ過ぎた。困難な状況で彼は彼なりにベストを尽くそうとしたのかもしれない。
でもどんなに立派な先生であったとしても、教え子を死なせた罪が経歴で軽減される訳がない。その罪は“聖職”にあった彼こそが一生背負って行かなくてはならない。
そのことを、この教諭は本当の意味では全く分かってないんじゃないかと、思います。
大体、この本に書かれるような完全無欠な教師なんか現実にあり得ませんて。スーパーヒーローやんコレ。全然リアリティ無いです。うん。

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