『FAKE』
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作曲家・佐村河内守氏の作品が18年間にわたって新垣隆氏という別の現代音楽家によって作曲されていたという、2014年のゴーストライター騒動のその後を取材したドキュメンタリー。
カメラは主に佐村河内さんの家のダイニングでずっとまわっていて、画面には、事件をおもしろおかしく茶化したり新垣さんが素人くさい笑いをとっているバラエティ番組や雑誌記事を観たり、国内外のさまざまなメディアの取材を受けたりしている佐村河内さん本人と、彼を支えるパートナーがずっと映っている。
ふたりはほとんど外出すらしない。
黒いカーテンを引き、照明も最低限しか点けない暗い室内で、ころんとふとった猫一匹と、ひたすら静かに淡々と暮している。にも関わらず映画がただ淡々としているわけではないところがさすが森達也でございます。
森さんは佐村河内さんの聴覚障害にまず言及し、「聴覚障害が嘘なのか事実なのか」を医学的に客観的に立証しようとする。そこには医師の診断書もあるし、実際に似た障害をもつ人の証言もある。森さんが劇中でいうとおり、聞こえるか聞こえないかは個人の感覚でしかないのだから、実際は他人にはわからない。そのうえで、佐村河内さんの感音性難聴がいったいどんな障害なのかを、観客に伝わるようにしっかりとらえようとしている。
それを立証したうえで、佐村河内さんの音楽についてもがっちり伝えている。この部分は実は森さん自身の取材ではなく、他のメディアの峻烈なインタビューを通じてたどりついた部分ではあるけど、観客の耳に届く形で映像にとらえられたのはやっぱり、ジャーナリスト・森さんの手腕によるものなんだろうとは思います。まあさすがです。
それだけの事実をきちんきちんと整理してならべて、佐村河内さんがいったい誰に対して何を欺こうとしたのか、そしてメディアはそれをどう「消費」したのか、失敗した個人に対する社会の残酷さと理不尽さが問わず語りに語られる。まーキツい。醜悪そのものです。
その対比となるのが、佐村河内さんの家族、主にパートナーのかおりさんの存在である。
事件によってすべての友人を失ったという佐村河内さんだけど、傷つけたくないから離婚してくれと申し出た彼に、かおりさんは何もいわずに寄り添い続けている。メディア取材には手話通訳を務め、外出時は耳の聞こえない佐村河内さんを介助をする。
穏やかであまり感情を出さないかおりさんだが、たたずまいのすべてに、パートナーを愛し慈しみたいせつに思う心があふれていて、とてもとても感動的だった。画面の中心はあくまで佐村河内さんなんだけど、そのそばにじっと彼女がいて、森さんを含めた第三者の厳しい言葉も全部そのまま正確に訳したり、来客のたびにかわいらしいケーキでせいいっぱいもてなそうとする姿をみていると、佐村河内さんが社会的にどんな人間であっても彼女にはまったく関係がなくて、そんなふうに愛される人にはきっと、他の誰にもわからない何かがあるんだろうなという気がしてくる。
その「何か」の価値までは、残念ながらわからないんだけど。
ところで森さんは猫が好きなんですかね。要所要所で佐村河内家のにゃんこがアップになるんだけど、これがまた可愛いんだよね。部屋が暗いせいもあって目がまんまるで。映画全体がだいぶストレスフルな内容なので、猫インサートにはかなり和みました。
このレビューを書くにあたって記者会見当時に書いた落穂日記を読み返したけど、けっこう森さんのスタンスと近い気がするな。気のせい?
しかしどっちにせよ、この事件はもう「消費」されて終わっちゃったコンテンツなんだろうね。そんなふうに個人の尊厳を「消費」する世の中、めちゃめちゃイヤだけどさ。ほんとやんなちゃうね。
関連レビュー:
『死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う。』 森達也著
『放送禁止歌』 森達也著
『ご臨終メディア ─質問しないマスコミと一人で考えない日本人』 森達也/森巣博著
『言論統制列島 誰もいわなかった右翼と左翼』 森達也/鈴木邦男/斎藤貴男著
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作曲家・佐村河内守氏の作品が18年間にわたって新垣隆氏という別の現代音楽家によって作曲されていたという、2014年のゴーストライター騒動のその後を取材したドキュメンタリー。
カメラは主に佐村河内さんの家のダイニングでずっとまわっていて、画面には、事件をおもしろおかしく茶化したり新垣さんが素人くさい笑いをとっているバラエティ番組や雑誌記事を観たり、国内外のさまざまなメディアの取材を受けたりしている佐村河内さん本人と、彼を支えるパートナーがずっと映っている。
ふたりはほとんど外出すらしない。
黒いカーテンを引き、照明も最低限しか点けない暗い室内で、ころんとふとった猫一匹と、ひたすら静かに淡々と暮している。にも関わらず映画がただ淡々としているわけではないところがさすが森達也でございます。
森さんは佐村河内さんの聴覚障害にまず言及し、「聴覚障害が嘘なのか事実なのか」を医学的に客観的に立証しようとする。そこには医師の診断書もあるし、実際に似た障害をもつ人の証言もある。森さんが劇中でいうとおり、聞こえるか聞こえないかは個人の感覚でしかないのだから、実際は他人にはわからない。そのうえで、佐村河内さんの感音性難聴がいったいどんな障害なのかを、観客に伝わるようにしっかりとらえようとしている。
それを立証したうえで、佐村河内さんの音楽についてもがっちり伝えている。この部分は実は森さん自身の取材ではなく、他のメディアの峻烈なインタビューを通じてたどりついた部分ではあるけど、観客の耳に届く形で映像にとらえられたのはやっぱり、ジャーナリスト・森さんの手腕によるものなんだろうとは思います。まあさすがです。
それだけの事実をきちんきちんと整理してならべて、佐村河内さんがいったい誰に対して何を欺こうとしたのか、そしてメディアはそれをどう「消費」したのか、失敗した個人に対する社会の残酷さと理不尽さが問わず語りに語られる。まーキツい。醜悪そのものです。
その対比となるのが、佐村河内さんの家族、主にパートナーのかおりさんの存在である。
事件によってすべての友人を失ったという佐村河内さんだけど、傷つけたくないから離婚してくれと申し出た彼に、かおりさんは何もいわずに寄り添い続けている。メディア取材には手話通訳を務め、外出時は耳の聞こえない佐村河内さんを介助をする。
穏やかであまり感情を出さないかおりさんだが、たたずまいのすべてに、パートナーを愛し慈しみたいせつに思う心があふれていて、とてもとても感動的だった。画面の中心はあくまで佐村河内さんなんだけど、そのそばにじっと彼女がいて、森さんを含めた第三者の厳しい言葉も全部そのまま正確に訳したり、来客のたびにかわいらしいケーキでせいいっぱいもてなそうとする姿をみていると、佐村河内さんが社会的にどんな人間であっても彼女にはまったく関係がなくて、そんなふうに愛される人にはきっと、他の誰にもわからない何かがあるんだろうなという気がしてくる。
その「何か」の価値までは、残念ながらわからないんだけど。
ところで森さんは猫が好きなんですかね。要所要所で佐村河内家のにゃんこがアップになるんだけど、これがまた可愛いんだよね。部屋が暗いせいもあって目がまんまるで。映画全体がだいぶストレスフルな内容なので、猫インサートにはかなり和みました。
このレビューを書くにあたって記者会見当時に書いた落穂日記を読み返したけど、けっこう森さんのスタンスと近い気がするな。気のせい?
しかしどっちにせよ、この事件はもう「消費」されて終わっちゃったコンテンツなんだろうね。そんなふうに個人の尊厳を「消費」する世の中、めちゃめちゃイヤだけどさ。ほんとやんなちゃうね。
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