落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

愛の面影

2022年11月22日 | movie

『ある男』

わずか2歳の次男を病気で亡くしたことで離婚し、長男・悠人(坂元愛登)を連れて宮崎の実家に身を寄せた里枝(安藤サクラ)は、家業の文房具店に画材を買いにくる大祐(窪田正孝)に「友だちになってほしい」と乞われ、やがて再婚。長女・花(小野井奈々)にも恵まれ幸せに暮らしていたある日、大祐が事故で死んでしまう。
1年後の法要に参列した大祐の兄・恭一(眞島秀和)は、遺影を見て里枝の夫が弟と似ても似つかない別人であることに気づき…。
第70回読売文学賞を受賞した平野啓一郎の同名小説を『愚行録』の石川慶が映画化。


!!!!!ネタバレ注意!未見の方、ネタバレは絶対イヤ!という人は読まないでください!!!!!


人間は社会性動物だから、誰もがいくつかの「役割」を背負って生きている。
たとえば社長。たとえば大工。たとえばタクシードライバー。たとえば学校教師。たとえばバレリーナ。たとえば卓球選手。たとえば看護師。たとえばマジシャン。たとえばお父さん。たとえばお母さん。たとえばおばあさん。たとえばおじいさん。
これくらいでやめておくけれど、人によってはひとつだったり、あるいは10コや20コも役割をもってる人もいるだろう。
そういう役割を、世の中では属性なんていったりする。

でも属性はあくまで属性であって、その人の人格そのものの価値を判断する材料にはなり得ない。
それこそ社長といっても家族経営の中小企業の社長と、一部上場の有名企業の社長をいっしょにして「社長とはこういう人なり」とアイデンティファイするには無理がある。
日本では制服のある学校が多いが、同じ制服を着た同じ学校の生徒であっても中身は千差万別で、たまさか同じ学校に在籍しているティーンエイジャーというだけで「あの子はどこどこ高校の生徒だからどうのこうの」などと決めつけることは誰にもできない。

というのは建前で、人は無意識に人を属性で判断する。
どこの出身で親御さんはどんな仕事をして、学校はどこを出てて、どこの企業に勤めていて、どれだけの規模の案件を手がけていて、どんなパートナーがいて、子どもはどこの学校に行ってて、おいくら万円のお家にお住まいで、クルマはどこそこの何クラスに乗ってて…とかなんとか、そういうどうでもいいような「査定基準」で誰かの人格を簡単に決めつけてしまう。
それがどんなに低俗で無意味なことか、わからないわけはないと思う。
正直にいえば、私個人は、その手の話は全部「アホか」としか思ってないんだけど。思いません?

この物語はそうした「属性」という妄執の話だ。

里枝が愛した大祐は、戸籍上の「大祐」とはまったくの他人だった。
彼女は亡き夫が誰なのかを確かめたくて、離婚のときに知己を得た弁護士・城戸(妻夫木聡)に身元調査を依頼する。城戸はある偶然をきっかけに「大祐」の身元を探り当てるが、「大祐」はとんでもなく残酷な属性に雁字搦めに縛られ、苦しみ抜いて、生きるためにやむなく、本物の「大祐」の戸籍を買い、「大祐」になりすまして、ひとり見知らぬ土地で新たな人生を歩もうとしていた。

城戸も、在日コリアン3世という属性に縛られている。
私は今作を実際に観るまでそういう設定になっていることを知らなかったので、義父(モロ師岡)が食卓でやおら「在日なんかに生活保護払うなんて制度が間違ってる。あ、(城戸)章良くんのことじゃないからね」などという暴言をサラッと口にするのにかなり面食らいました(*私も在日コリアン3世です)。
こういう人いるよね。ていうか大部分の日本人がそう思ってるんじゃないの?おっとこれは偏見でしょうか。

けどさ、私はもうこのシーンが出てきた時点で、映画を観ている間ずっと、「日本人の観客はモロ師岡や柄本明(城戸に重要な情報提供をする詐欺師)のいってることをどう感じるんだろう」という疑問で頭がいっぱいになってしまった。
城戸がそういう差別的な言動に対して、ほんのちょっと困ったような顔をしつつも、どうにかこうにかなんともない風を装ってその場をやり過ごす、その猛烈な“いたたまれなさ”を、いったいどれだけの観客が共感をもって受けとめているだろう。
悲しくて、寂しくて、切なくて、「しょうがないんだ。しょうがないんだ。しょうがないんだ」と、一生懸命、己れにいいきかせながら生きていく孤独を、城戸は「大祐」の苦悩に重ねていたのではないだろうか。

城戸が里枝に調査結果を報告したとき、彼女は「ほんとうのことを知らなくてもよかった」という発言をする。
その言葉の意味は説明されないので、彼女が何を思ってそういったのか、城戸がどう感じたのかは画面上ではわからない。

里枝は、愛する夫がほんとうは誰だったかということは大した問題ではなくて、4年ほどの短い時間を幸せに寄り添って暮らした思い出の方がずっと大切で、身元がわかってみて、そのことに初めて気づいたのかもしれない。

だけど私は、きっと城戸さんは、「依頼人は自分の夫のほんとうの身元(=属性)があまりにもひどいから、そんなこと知らない方が良かったのに、と思っているのかな」と感じたんじゃないかと思ってしまう。
こんな言葉にしてしまうと馬鹿みたいな被害妄想のように聞こえるかもしれないけど、映画にも登場するヘイトスピーチの嵐の中で暮らしていれば、どうしても、日本人が何気なく口にする些細な言葉のひとつひとつに、いちいち敏感にならざるを得ない。声高に差別主義を叫ばなくても、顔も名前も知らない「在日」を一括りにして生活保護泥棒だなどと平気で決めつけ、犯罪者の身内に人権なんかなくてもいいと無意識に思いこんでいる見えない群衆の方が、ずっとずっと恐ろしいのだ。

この映画を観た人みんなが、「大祐」や城戸さんのしんどさに共感してくれてたらなと思う。
中には、「弁護士なんて立派な職業に就いて別嬪な奥さん(真木よう子)もおって、日本国籍ももってるんやから何も気にすることなんかあらへんやんか」と思う人もいるだろう。たくさんいるだろう。

でもね、そういうことじゃないの。
全然違うの。
わかってもらえないかもしれないけど、全然、違うんだよ。

これだけ複雑な家庭に育った悠人くんが、生さぬ仲の義父を父として敬い、愛して、素直で優しい男の子に育っていることだけが、この作品の救いだと思いました。

 

ところでこの記事に #在日コリアン とか #在日 ってタグつけようとしたら「受け付けられません」ってエラーが出たんやけど、なんで?



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