落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

レンタルまつり 南部系

2006年03月26日 | movie
『グッド・ガール』
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ジャスティン(ジェニファー・アニストン)はテキサスの田舎町に住む30歳の主婦。結婚して7年になるのに子どももなく、平凡な夫(ジョン・C・ライリー)との退屈な生活にわけもなく苛立つ日々を送っている。ある日勤め先のスーパーで新しいレジ係の文学青年(ジェイク・ギレンホール)とふとしたきっかけで親しくなり、急速に不倫関係に発展するが・・・とゆー、一種のブラック・コメディですね。これは。
おもしろかったですよ。ちゃんと。ぐりは海外ドラマも含めてほとんどTVをみないので演技してるジェニファー・アニストンをみたのは初めてだけど、演技ウマイね。いい女優さんだと思う。

この映画、一部では評価もされてるけど日本ではどーなんですかね?ヒットしたのかな?けっこうよく出来てるし、ぐりはいい映画だと思います。単純なラブコメでもないし、ありきたりのメロドラマでもない。笑えるところもいっぱいあるし、考えさせられるところもある。
タイトルは「グッド・ガール」、日本語では「良い子」みたいな意味だと思うんだけど、この物語は「良心」や「正義」、「誠実さ」や「正直さ」の意味について影の側面からアプローチしている。
平和な家庭、平穏な毎日、健康な生活、それは幸せの象徴には違いない。でも人はそれだけでは満足できない厄介な生き物だ。かといって夢や愛情だけでも満たされはしない。現実の世界を生きている人間は、それぞれに自分や社会と折りあいをつけ、どこかで妥協を許しながら生きている。ヒロインは若い愛人との関係によって自分がほんとうに直面している「世界」を改めて認識するのだが、それはいってみれば彼女が真の「大人の女性」として歩きだすための一歩でもあり、「少女時代(の残骸)」を完全に捨て去るための一歩でもある。
ただのコメディ映画としては登場人物たちが支払わされる対価があまりにも大き過ぎるのではないか?という見方もあるだろうが、ぐりは逆に、一般社会でいう「幸福」の意味を逆説的に問うという意味ではわかりやすい物語だと思いました。家族ってなんだろう。夫婦ってなんだろう。子どもってなんだろう。宗教ってなんだろう。人種差別ってなんだろう。健康ってなんだろう。愛ってなんだろう。
どれも一言でストレートには語れない。「語れない」ということを、この映画では正面からすっぱりときってみせているんではないだろうか。
そしてかつ、銃やセックスや暴力が氾濫するお気楽な「大人のファンタジー」の毒気たっぷりなパロディーでもある。

コレぐりはもちろん(笑)ジェイク目当てで観たんだけど、いやあ、ヘタレだ。もおおお、これ以上にヘタレなキャラはありえない!とゆーくらいのぶっちぎりなヘタレっぷり。純粋でロマンチストだけど精神的に幼稚で両親ともうまくいっていない。なぜかいっつもぶすくれてて、人妻との情事に溺れだすととりとめもなく溺れる、カラダばっかり大きな未成熟な男の子。目つきがヤバくて、歩き方や仕種や声のトーン、喋り方も子どもっぽい。笑ったり泣いたり酔っぱらったり暴れたり、かわいかったりエロかったり鬱陶しかったりイッちゃってたり、表情も豊か。一体誰なんだコイツは?つーくらいの熱演です。最後はちょっと可哀想だったね。この人左利きなのかな?それともこれは役の設定なのか。
結構マジメにつくられたきちんとした映画だと思います。ただし女性をターゲットにしたエンターテインメント映画としてはやや問題があったかもしれない。ヒロインや愛人の自己愛が強烈すぎて女性にはイマイチ共感しにくいから。もしかして監督は女嫌いなのか(笑)?
みんなが大好きなお涙ちょうだい純愛映画なんかとはもろに対極にあるよーなお話だけど、むしろぐりはこんな映画の方が好きかもしれない。いいと思います。

レンタルまつり 南部系

2006年03月26日 | movie
『楽園をください』
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1861年に勃発した南北戦争を舞台に、北軍から故郷を守るために戦った青年たちの苛酷な青春を描いた歴史ドラマ。1991年の李安(アン・リー)監督作品。
南北戦争を題材にした映画や小説はいくつもあるし、歴史の授業で習った最低限の知識はあるけど、アメリカの短い歴史のなかでも一種タブー視されている内戦の実情については、ぐりはまったくなにも知らない。『風と共に去りぬ』を最後にTVで観たのはいくつのときだったか。『若草物語』を読んだのは小学生のときだ。
この映画では、南北戦争の政治的意義や歴史的背景にはほとんど触れることなく、ただアメリカ史上最悪の時代を生きた若者たちの苦悩を、ただただ淡々とクールに描いている。戦争の正義をあえて語らず、そこに置かれた人々の人生に起きた悲劇を穏やかに描くことで、人と人が争うことの虚しさや、そんななかでも力強く前向きに生きる生命の輝きが、しっかりとした立体感をもって表現されている。

それにしても観ていて自分の知識のなさにこれほどいらつく映画もそうそうない。ホントに説明がまったくないから。
それでも常識として、この戦争が奴隷制廃止をめぐって南北が対立して起きたことだけは知っている。だから、奴隷制存続を主張して抵抗した南軍に黒人戦士がいたり、白人同士の間にも民族差別が横行する南軍ゲリラの人間関係には、最初かなり面喰らいました。こんなことがほんとうにあったのか?と。
けど観てるうちに、この物語ではそうした歴史と矛盾する細部でもって、暴力と諍いの無意味さ、愚かさを伝えようとしていることがわかってくる。ラスト近く、伸ばしていた髪を切りヒゲを落とす主人公(トビー・マグワイア)と老農場主とのやりとりがまさに圧巻だ。このひとことふたことの台詞に、全てが象徴されているようにぐりは感じた。
原作があるようなので、そのうち読んでみようと思います。

戦争映画なので暴力的なシーンも確かに多いけど、台詞は非常に少なく展開も静か。主人公があくまで寡黙に無表情なまま、周囲の求める“南部男”たろうとする姿が却って痛々しい。
李安やっぱ今作でも地味です。この地味さが妙に台湾っぽく感じるのはぐりだけですか?他の李安作品も、非アジア圏を舞台にして非アジア人を描いているのに、いつもトーンがどことなく東洋っぽいような気がする。
でもそうした客観的視点からしか語れないドラマもある。西欧社会の抱えたどうしようもない歪み、影、悲惨さ。それら当事者には直視しがたいテーマを、非西欧人だからこそ、ことの善悪や正誤をさておいて、ニュートラルな語り口によってひもとくことができるのかもしれない。
若い子向けの教育的映画としても文芸映画としてもいい作品だと思います。ただちょっと長かったのが難点といえば難点でした。

再登頂

2006年03月25日 | movie
久しぶりに仕事で完徹×2。
朝帰宅してそのまま一日寝たおしたろかと思ったけど、なんだか落ち着かなくて『ブロークバック・マウンテン』を前回とは別な映画館で再見することに。
二度めは初見とは違うレビューを新たに書くつもりだったけど、先日みつけたBlog「瓶詰めの映画地獄 〜地獄が闘えと俺に言う〜」のレビューがムチャクチャ的確で、ぐりが思いつく限りこの映画について語れることの98%は全部こちらに書いてあった(爆)。これ論点も明確だしわかりやすいし読みやすいし、映画を観てる人も観てない人もこれから観る人にもオススメの文章です。今までに読んだレビューのなかでも出色ではないかと思われ。
なので今日は残りの2%について語ろーと思います。

ごく正直にいって、ぐりはこの映画がアカデミー賞を獲ったとか獲らなかったとか、初めてハリウッド映画のメインストリームに登場したゲイ映画であるとか、そういったちまたで話題の部分にはさほど興味がない。
それよりは、この映画が激しい賛否両論を喚び、ポジティブな反応にもネガティブな反応にもそれぞれに受けとめ方の差異が非常に顕著に見受けられるという、一種独特な現象の方に心をひかれた。つまりこの映画に対する評価の善し悪しに関わらず、観た人それぞれの感じ方があまりにも違いすぎるのだ。純愛映画だという人もいれば、不倫映画だという人もいる。友情の物語だという人もいれば、性愛の物語だという人もいる。普遍的という人もいれば、画期的という人もいる。性別を超えた愛を描いているという人もいるし、男同士でしか成り立たない話だという人もいる。
どれも事実だし間違ってはいない。でもこの映画で最も力をこめて描かれているのは、そしてこれほどまでに観た人間を饒舌にさせるのは、そういった既存の概念─これまでの映画にしばしば描かれてきたテーマ─の行間に託された、まさに映画的挑戦のなせる業なのではないかと思う。

それは、「人間は誰もが大きな自己矛盾を抱えて生きている」という、フィクションでの正当化が非常に困難なモチーフにほかならない。
この物語に登場する人物はみな、背反するいくつもの自己に引き裂かれている。主人公イニス(ヒース・レジャー)は極端なホモフォビアでありながらジャック(ジェイク・ギレンホール)を愛してしまう。自分のしていることが不貞でありホモ行為そのものであることを理解してはいるのに、自分自身が同性愛者であること、ふたりが愛人関係であることは頑ななまでに認めようとしない。そして自分の置かれた環境に不快感を抱きながら、過去を捨てて新しい世界を切り拓こうとは考えもしない。
ジャックは一度も訪ねてはこない恋人の元に毎年片道14時間もかけて通い続けながら、一方では他の男性と火遊びもする。肉体的には必ずしも彼を満足させてはくれない恋人に、ジャックはなぜあれほど長い間尽くせたのか。彼の妻(アン・ハサウェイ)は両親の意に染まぬ夫が同性愛者であることをうすうす感じとりつつ、結局は最後まで家族として彼を支え続けている。
イニスの妻(ミシェル・ウィリアムズ)は離婚してから元夫にも再婚を勧めたその口で、男友だちとの浮気を糾弾する。今となってはふたりにはもう関係がないはずの元夫の秘密。新しい家庭をもったことで元夫よりも社会的優位にたってみて、ずっと心にしまいこんできた恨みをぶちまけたくなったのだろうか。
こうした矛盾は誰もが抱えているごく当り前の人間性の一面だが、わかりやすさや共感しやすさが求められるフィクションの世界では真っ先に省略されやすい要素でもある。この映画では、むしろその部分を大事に丁寧にすくいとることで、キャラクターそれぞれの人物造形に深みと奥行きを与え、人の一生のままならない厳しさを描こうとしているのだ。

こうした自己矛盾のもとに、人は誰もが一様に孤独である。
なぜならそれぞれの矛盾は本人にも理解したり消化したりすることが困難であり、それゆえにどうしても他人にも決して許容されないものだと思いこみがちだからだ。他人の矛盾を許容するのは事実簡単なことではない。
それを許せるのはやはり愛の力しかない。ジャックはイニスがどんな生き方をしていても変わらず20年間愛しつづけたし、イニスにはそんなジャックの愛情がどうしても必要だった。どう考えてもふたりで幸せになれるわけなんかないと互いに知りながら離れることもできなかった、矛盾にみちた20年間。
そこにある矛盾の巨大さゆえに、この物語はこんなにもさびしく、かなしく、せつない。観ているわれわれの心の底に常にじっと横たわっている、自分ではどうすることもできないほどひややかにかたい孤独。映画は、われわれが常に自ら触れるのを避けている、もろくあやうい部分を、そっと揺り動かし、囁くのだ。所詮人はみな、誰かを愛し、愛されたい、かよわく、はかない生き物ではないかと。
こんな物語を、ゲイ映画とか恋愛物語とか感動の傑作とかありきたりな言葉でかたづけるのはやっぱり乱暴だと思う。かたづかないところにこそ、この物語の真のメッセージがこめられているからだ。

李安(アン・リー)監督や製作のジェイムズ・シェイマスはこの映画がこれほどまでの反響を喚ぶとは思ってもみなかったし、観たくない人は観なくたってかまわないといっている(ぐりもこれがヴェネツィアで賞を獲った時点ではまさかこんな騒ぎになるとは想像もしなかった)。要するに確信犯なのだ。彼らはクリエイターとしてつくりたい映画をつくったし、いいたいことはちゃんと描ききった。自分たちのしたことと作品には自信がある。人には好き嫌いがあって当り前、気にいってくれない人もいるし怒る人だっているだろう。それでもいいんだよ、だって映画だもん。
とはいえ、この映画は商業映画として最低限誰にでもわかるような平易な語り口にはかなり気をつかってはいる。たとえばアメリカのホモフォビアはキリスト教の教義によって差別行為を正当化するけど、イニスは必ずしも信仰に篤くない人物として描かれ、ジャックには逆に自分が(性嗜好も含めて)反キリスト教的であることを認めるような台詞をいわせている。そうすることで、物語の舞台アメリカときってもきれないキリスト教と登場人物とのバランス関係をさりげなく表現している。
二度みてもやっぱり細部まで神経の行き届いた優れた映画だと思いました。つくり手や出演者の情熱もとてもよく伝わってくる。偏見や先入観で否定するにはホントにもったいない作品です。

野球は好きですか

2006年03月21日 | book
『二遊間の恋 大リーグ・ドレフュス事件』ピーター・レフコート著 石田善彦訳
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短編小説『ブロークバック・マウンテン』の映画化権が取得されてから完成まで7年もの歳月を費やしたように、文学的には高い評価を受けて映画化が計画されながらもなかなか実現に辿り着かない小説がいくつもある。この原題『The Dreyfus Affair』も発表後14年間に何度も映画化の噂が流れては消えるベストセラーのひとつ(ソース)。
ドレフュス事件といえば社会科の授業でも習う19世紀末フランスで起きた軍事スパイ事件のことだが、この物語と実在のドレフュス事件は関係者の名前と「わたしは弾劾する」という有名な一言が流用されている以外はまったく関係がない。『二遊間の恋』は1990年代のアメリカ・メジャーリーグを舞台にした娯楽小説だからだ。

最近ハリウッドでは『ブ山』の成功を受けてスター俳優が出演するゲイ映画の企画が何本も持ち上がってるけど、まさにこれはそのなかでも大本命だろう。
主人公はメジャーリーグでも強豪チームのスター選手。金髪でハンサムな白人、美人の妻と双子の娘がいる。強打者でポジションはショート。彼はある日突然、美しく理知的な黒人チームメイト─ポジションはセカンド─に恋をしている自分に気づく。ふたりは守備でも打撃でもチームの要であり、名コンビでもあった。しかもセカンドはクロゼット・ゲイ。彼らがぬきさしならない関係に陥り、やがて全米を揺るがす前代未聞のスキャンダルが露呈するのにさして時間はかからなかった。神聖なる国民的スポーツの尊厳を汚した罪で球界を追われるふたり。だがほんとうに野球を愛する人間にとって、それは決して見過ごすことのできない“事件”だった。
どうでしょー。これほどハリウッド映画向きのモチーフってないんじゃないですかね?うってつけでしょう。是非とも映画にするべきですね。今こそ。主演はコリン・ファレルなんかでどうでしょう。監督はサム・メンデスあたりを希望。

邦題は恋愛小説風だし、原題のサブにも「A Love Story」と書かれてはいるけど、これははっきりいって恋愛小説としては大しておもしろいものではないです。ふたりの人間が恋に堕ちて、障壁の大きさゆえにより分かちがたく強く結ばれる。ふつーだ。王道だ。
でもすっごく読ませるんだなこれが。ほんっとにおもしろいです。考えさせられるし、なおかつ相当笑える。後半なんかとくに爆笑っす。
なんでか?だってたかがホモ行為で、ワールドシリーズの伝統が存亡の危機にたたされるんだよ。アメリカ社会全体が猛烈な議論の渦に巻き込まれ、コミッショナーに大統領から電話がかかってくる。しまいにゃFBIまで動員される。おかしいよ。おもしろすぎですからー。
しかし筆致はあくまでシリアス。そこがまたいいです。この小説の読ませどころはなんといっても淡々として簡潔でありながら、複雑に矛盾した現代アメリカのおかしさをクールにかつ緻密にとらえた描写力だろう。あるいはこの小説のメインは手のつけようのないほどによじれてしまった社会への風刺で、主人公たちの恋は背景を効果的にみせるためのただの狂言廻しともいえる。年俸契約にCM契約、テナントレースの成績、体調管理に家庭環境などなど幾重にも積み重なる精神的プレッシャー、エージェントに会計士、監督にオーナーに弁護士にカウンセラーに精神科医に私立探偵、保安官に検事に獣医師に庭師にスポーツジャーナリスト・・・たった28歳のひとりの青年をとりまく異様にいりくんだ人間関係と交錯する思惑。ほんとによく描けてます。
ストーリーそのものは脳天気すぎるとゆーか、ご都合主義的な部分も結構あるけどね。主人公の飼犬がある重要なメタファーとして登場するんだけど、これもちょっとズルイ。

ほんとうは読者はこの物語を笑ってはいけないのかもしれない。
主人公たちは真に自分たちにとって大切なものを見失わないように常に努力しつづけるけど、彼らの周囲の人間たちはそんなことはすっかり忘れてしまっている。倫理観、信仰心、社会通念、名誉、お金、下品な好奇心、長い歴史の間に歪められた固定観念に混乱させられるアメリカの姿は滑稽だけど、そのいびつさは既に笑って済ませられるようなレベルのものではないのかもしれない。
それとも、もう笑うしかないのだろうか。
映画化が成功することを心から祈ります。

ところでこの主人公ランディと恋人DJのキャラ設定がよかったです。主人公は脳まで筋肉の野球バカで、恋人の方は頭脳派で常に冷静沈着だが愛情深くやさしい。とにかく素直で情熱的なランディ、不倫を承知で彼をあたたかく受けいれるDJ、どっちも男性としてしっかり魅力的でした。ぐりはふたりとも好きですよ。

レンタルまつり テーマなし

2006年03月20日 | movie
『セクレタリー』
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リー(マギー・ギレンホール)は従順で内向的で自傷癖のある女の子。精神病院を退院して自立のために弁護士事務所で秘書として働き始めるが、潔癖で几帳面なボス(ジェームズ・スペイダー)の職業的“指導”がきっかけになり、隠された自分の性癖に目覚めていく。
よーするにアレですね、ソフトSM。変態映画ですわ。けどエロくはないよね?これ?TSUTAYAじゃエロなコーナーに置いてあったけどさ。タイトルも『“秘書”セクレタリー』になってた(そのまんま。ダサ)。つーかどっちかというとコメディ?じゃないですかね?
プロダクションデザインがすごくいい。ってそこは見どころじゃないでしょーが!?とツッコまれるかもしれませんがー。でもホント配色がおしゃれなんだよー。ベースが蘭の花の色─バーガンディとモスグリーン─で、そこにスモーキーなピンクや芥子色、ラベンダーなどを加えて、ぼやーんとしたやわらかい照明を使って、ガーリーなんだけどもそこはかとなく妖しげとゆー、えもいわれぬ雰囲気の映像になってます。つまり見た目からして既に完全に女性向けなの。
主人公のキャラクターがとってもキュート。自傷癖のあるマゾって聞いただけだと相当イタイと思うんだけど、とろんとした喋り方とか怯えたような目つき、髪をやたらいじったり舌なめずりをしたり、幼女みたいな立ち居振舞いをマギーが演じてるとぜんぜん嫌味がないです。実はこの人ほんとにこんなんだったらどうしよう?と思ったり(そんなことありません)。演技うまいんだねえ。
しかし映画としておもしろいか?好きか?と訊かれるとそこはやっぱビミョー(笑)。イヤぐりがまったく変態ではないからこれが理解出来ないとか、そういうことをいいたいわけではないんだけど(笑)、ちょっと展開がもたもたしてるうえにご都合主義的とゆーか、甘いよね、万事において。丁寧なんだけど大味とゆーか。何もかもがジェームズ・スペイダーとマギーの熱演のうえにのっかっちゃってる。コメディだからいーんだよー、といわれるとそーかなー?とも思いますけども。それにしてはムダに長いよ(111分)。この内容なら余裕であと20分くらいは削れるね。
マギーは美人でも巨乳でも美脚でもないけど、適度に健康的にセクシーでチャーミング。弟(ジェイク)とは似てないなあと思ってたけど、口元の動きがいっしょだなと今回気づき。笑顔がカワイイです。彼女のクマっぽい恋人ピーター(ジェレミー・デイヴィス)のキャラもぐりはけっこー好きでした。