落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

おさかなは好きですか

2006年12月23日 | movie
『ダーウィンの悪夢』
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世の中には決して取り返しのつかないことがある。
時間の歯車は逆にはまわらない。
起きてしまったことを、後から「あああれがいけなかったのだ」と悔いたり責めたりしても意味がない。
大切なのは、今、目の前にある事実をどうすべきなのか、ということなのだ。

この映画の主人公「ナイルパーチ」の最大の輸入国は日本(映画では1位はEUとされているが、単独国での輸入量となると日本が1位)。
淡白でやわらかい白身の切り身はスーパーの鮮魚コーナーや惣菜・冷凍食品コーナーに並び、あるいは給食やファストフードやファミレスや弁当屋の人気メニューに使われている。日本に住んでいれば誰もが口にしたことがあるはずだ。
だがこの魚を産出するタンザニアの人たちの口には、決してこの切り身は入らない。
彼らは、切り身をとったあとのアラを食べているのだ。

この映画が公開されてフランスでナイルパーチのボイコット運動が起きたり、映画に出た人が嫌がらせを受けたりしたというが、そういう反応はまったくの見当違いだと監督はいっている。
ぐりもそう思う。
白身のフライはおいしい。ぐりだって好きだ(脂っこいので普段はあまり食べないけど)。おいしいものが世界中でひろく食べられるのはいいことだ。
問題は、物事の良い方、自分にとって都合のいい方しかみないことじゃないかと思う。
故意による無知ほど罪深いものはない。
ナイルパーチを運ぶ飛行機がアフリカの紛争地域に武器を密輸しているという事実と、おいしい白身のフライは無関係ではないということを、食べてるみんなが知るべきだ。

白身のフライの“都合の悪い方”は武器密輸だけじゃない。
獰猛な巨大肉食魚の放流による食物連鎖の崩壊。地元経済の急激な活性化が引き金になって生まれたスラム。貧困から広がる売春とHIV感染、ストリートチルドレンの増加。
その現実は、東京のコンビニでフライ弁当を買って食べている人間には到底想像もつかないほど絶望的だ。
それでもタンザニアの人たちは生きていかなくてはならない。
魚を運んでいるロシア人たちだって生活がかかっている。
彼らに道は選べない。
目の前にある現実を受け入れ、日々の糧に必死でしがみつき、奪いあう以外に、命を繋いでいく方法がない。彼らにとって、「生きる」とはそういうことだ。
作中でエリザという若い娼婦が歌っていた歌が、耳について離れない。

タンザニア タンザニア
私はあなたを心から愛します
あなたの名前はとても美しい
眠るとき 私はあなたを夢にみて
起きているときはあなたを誇りに思う
(『ナクベンダ タンザニア』劇場用パンフレットより)

そんな地獄に彼らをたたき落として、得をしている人間たちがどこかにいる。彼らには、貧困の中でなすすべもなく朽ち果てていくタンザニアの人たちのことなんか眼中にない。
それは間違いない。
でも西欧社会では誰もそのことを正面からみつめようとはしていない。誰も糾弾しない。
この映画でも、結果的にはそこまでは到達してはいない。
だが結末にはある到達点がみえる。
そこまで辿り着くのも大変だったろうと思う。そのプロセスにどれだけ時間がかかったか、どれほど困難な過程を要したか、それも想像がつかない。
あくまでも淡々としたトーンの映画だけに、逆に語り手たちの必死の息遣いが伝わってくるような気がした。

緑色の灯火

2006年12月18日 | book
『グレート・ギャツビー』 スコット・フィッツジェラルド著 村上春樹訳
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最初に読んだのは高校生の時。なぜかいちばん古い野崎孝訳のバージョンで、その後文庫で買って繰返し読んだのもこの版だった。
村上春樹はあとがきでこの小説とヘミングウェイの『日はまた昇る』を対比させているけど、ぐりは『日はまた昇る』の方も大好きです。といってもヘミングウェイのほかの作品はそれほど好きではない。逆に、フィッツジェラルドのほかの短編は大好きだけど、『ギャツビー』はそうでもない。いい小説だし、魅力的な作品だとは思うんだけど。

ぐりにとっての「いい小説」は、何度読んでも読むたびに違った感興を喚起してくれる作品のことだ。
季節によって香りが変わったり、肌触りが変わったり、つやの深みが変わったりする、いろんな味わいをもった小説。
そういう意味ではこの『ギャツビー』も読むたびに感じ方が違う。初めて読んだ高校生の時には、空の星のように決して手の届かないものに焦がれたギャツビーが哀れでならなかった。20代のころは、自分の手で自分の人生を選び取ることの出来ないデイジーを憐れんだ。
30代の今は、それぞれまったく個性をもちながら、結局は全員自分の都合のいいようにしかものをみられない登場人物たちの視野の狭さを寂しく感じる。あくまでも尊大でいることでしかアイデンティティを保てないトム、高みへ上ることだけに腐心して足元に気づかうことを忘れたギャツビー、周囲の人間の不正直さを卑下するあまり自らの不誠実さには気づかないニック。
若くて、才気に溢れ、チャンスに恵まれているというだけで、人はなぜここまで傲慢になれるのだろう。それが人の愚かさでもあり、可愛らしさでもあるのだが。
古きよき時代のアメリカの象徴・中西部、しかしはっきりと時代の波に取り残されつつあった中西部で生まれ育った過去から逃れられないアメリカ人たちへの愛惜。

村上氏はこの小説を訳すにあたって、小説家としての自分のスタイルを極力廃して、原文の魅力を忠実に再現するよう注意したと書いているが、なるほど他の訳本とはかなりタッチが違う。よくいえば“村上春樹臭さ”はまったくないし、悪くいえばやや文体が固い。
この小説が書かれて既に80年の歳月が流れていて、村上氏はその経年を感じさせない翻訳に努められたそうなのだが、申し訳ないがいちばん古い野崎訳よりも却って古いような印象を受けた。村上氏はこの他に何本もフィッツジェラルド作品を訳しているのだが、そのどれともスタイルがあまりにかけ離れすぎていて不自然な気がした。とくにフィッツジェラルド独特の流麗なリズムが失われてしまっているのが残念。
ちなみに村上氏は『グレート・ギャツビー』をもじって『偉大なるデスリフ』(C.D.B.ブライアン著)などというタイトルをつけた現代小説も訳している。こちらは“ギャツビー”たちの孫にあたる世代のアメリカ人たちの、先達への叶わぬ憧れと現実への幻滅を描いた、なかなか辛辣な物語です。

ちなみにぐりがいちばん好きなフィッツジェラルドの作品はやはり村上氏訳の短編集『マイ・ロスト・シティー』所収の『残り火』。『バビロンに帰る』も好きです。
しばらく読み返してなかったけど、なんだかまた読みたくなってきたなあ。

やる気はわかるが

2006年12月16日 | movie
『ヒマラヤ王子』

長かった!開会セレモニーが。
1時間半だよ。長過ぎ。とりあえず主催者3人が3人ともハンコで押したみたいにまったく同じ挨拶ってどーゆーことよ?しかもくどいし。この他に5人のゲストが挨拶したんだけど、スピーチそのものは栗原小巻女史がいちばんうまかったです。とくにどーっちゅーことはいってないんだけど聞かせる。内容は『ヒマラヤ王子』の胡雪樺(フー・シュエフォア)監督の挨拶が興味深かった。自ら「反日教育を受けた」という若い世代らしい話でした。なんつーか、反日教育を受けた人たちもある意味時代の被害者なのかもなとふと思い。
監督はこの映画で『前の世代の恨みは、新しい世代の愛で許そう』ということをいいたかったと発言したけど、それって日中関係だけじゃなくて、世界中どこでもいえることなんだよね。肩に入った力の強さはわかるんだけど、モチーフが古典劇「ハムレット」ってちょっとアプローチがカタかったんじゃないすかね。

シェイクスピアを元にした映画は古今東西いろいろつくられてるけど、ストーリーがしっかりしてるぶんだけ却って難しいところもある。だってオチとかもうみんな知ってるから、原作に縛られず、原作をうまく活かして自由な表現をしないと、ただただ重いだけ、退屈なだけになってしまう。『ヒマラヤ王子』はもうモロにそのパターンにハマってます。
ストーリーはまんま「ハムレット」じゃなくて割りに大胆な加工が入ってるんだけど、それでもあの独特の説明的・観念的なタッチにかなり引きずられてしまってる。よくいえば、舞台をチベットに持って来たわりには原作の雰囲気を忠実に再現してるとはいえるかもしれない。けどね〜〜〜長いよ〜〜〜眠いよ〜〜〜。雰囲気はホント悪くないんだけどね〜〜〜。
編集がところどころ不自然だったり、唐突なベッドシーンとか全裸乗馬シーンとか、ツッコミどころも各所にあり、全体の品位そのものはやや怪しい。逆にコミカルな要素は排除されちゃってるみたいなんだけど。

オールチベットロケ(なんと海抜5000m)でチベット族出演/チベット語による劇映画というのは実に50年ぶり、これがやっと2作めというレアな映画、という点では一見の価値はあると思います。とりあえず雄大な山岳地帯の風景の美しさは圧倒的に素晴しいし、衣装とかヘアメイクは非常におもしろい。ある意味『大奥』みたい(笑)。羊から水牛からオオカミからキツネからウサギからミンクからバンビからリンクスから、ありとあらゆる動物の毛皮、角、歯や爪を使った衣装やアクセサリーがふんだんに出て来ます。ふつう王家・宮廷を舞台にした映画といえば金銀宝石、絹や刺繍なんて豪華な装飾物が富の象徴として出てくるけど、いやもちろん『ヒマラヤ〜』にもその手の工芸品も出てくるんだけど、それよりも画面を埋め尽くす毛皮の凄まじい量にビビりました。コレ欧米で公開したら動物愛護団体とかにメチャ怒られそう・・・オチもアレだし(笑)。
あと少数民族のチベット族俳優の魅力も堪能出来ます。目鼻立ちがくっきりしてて肌が浅黒くて、人種的にはアーリア人に近い容貌の人が多いみたいでした。ゲストに来てた主演の蒲巴甲(プー・バージャ)も顔濃かったです。濃い王力宏(ワン・リーホン)。ホントよく似てました。まだゼンゼン垢抜けなくて、ちょーふつーのにーちゃんだったけど。演技はどーなんでしょね?熱演だったけど・・・ちょっと頭のめぐりのよくない、どっちかとゆーとおマヌケな「ハムレット」ぶりはハマってた気はします。新人だからこれからなんだろーね。もう既にボードとか持ったおっかけがいたのにはビックリしましたがー。

ところでコレ、なんで邦題を『ヒマラヤ王子』にしなかったんだろね?『ヒマラヤ王子』ってなーんか語呂がもうひとつ軽い気がするんだけど。少なくとも文芸映画って感じはしない。
なんでですかー?

俺様

2006年12月12日 | movie
『武士の一分』
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キムタク主演の時代劇としては合格点だと思う。いい意味でも、悪い意味でも。
山田洋次監督はキムタクの印象を高倉健に対比させて表現してたけど、そのせいか映画を観ててしみじみ『単騎、千里を走る。』を思い出してしまった。キムタクも高倉健も、女以上に男をよろめかせる魅力にあふれた俳優だし、つくり手のよろめきが画面にみちみちてるという点で、この2本はすごく似ている。
キムタク確かに芝居上手いです。いやそんなことは先刻承知なわけだが、それにしても上手い。心の底から力いっぱい感心しちゃうくらい上手い。むしろ“キムタク”であることがハンデにみえるくらい上手いのだ。彼は劇中、毒見の役目のために失明してしまうのだが、盲目になった彼がふらふらと頼りなく体を動かすたびに思わず「危ない!」とひやひやしてしまうくらいリアルな盲者ぶり。たぶんぐりがこれまでにみてきた盲者役の演技の中では二番めくらいにリアルだと思う(一番は『ナイト・オン・ザ・プラネット』のベアトリス・ダル)。
殺陣もすばらしい。剣道が出来るのはスマスマでみて知ってたけど、迫力がスゴイです。『たそがれ清兵衛』の真田広之と比べても遜色ないってのはいい過ぎだけど、見た目はそのくらいキマッてる。剣道道場を開くのが夢で、医者にも「武芸で鍛えたからだは違う」といわれる役柄がまったく不自然じゃない。
そこまでリアルに三村新之丞という人物を再現しながら、同時にちゃんと“キムタク”でもあるという確固たるスター性の強さには、あらためてがっつりと感じ入るものがありましたです。

例によって異常にリアルな衣裳やヘアメイクや季節の移り変わりを綺麗に表現した美術・照明なんかもすごくいい。
けど今回致命的に物語と世界観が平板。これはイタイ。
世界観が細かいのはわかる。なにしろ「妻を寝取った男への仇討ち」とゆーテーマが矮小なんだから、そこは細かくてもぜんぜん構わない。けど妻加世(檀れい)と仇敵島田藤弥(坂東三津五郎)の人物造形があまりにあっさりしすぎ。話が何もかも新之丞の守備範囲内で完結しちゃってるのが消化不良だよー!
三村夫妻の馴れ初めや生い立ち、三村本家との確執などといった家庭環境をもっとしっかり描いた方が、ストーリーに奥行きが出たんじゃないかと思う。そのへんそっくりほったらかしなんだもん。
あとやっぱ檀嬢と坂東氏はキャストとしても弱かったかも。演技は全然問題ないんだけど、キムタクが命を懸けるだけの女・仇敵としての強さがまったく足りない。完璧に役柄に負けている。ここにもっとキョーレツな人をキャスティングしとけば、映画全体の厚みもぐっと上がったハズだと思うんだけどなあ。あ、それとも監督の思い入れが足りなかったってこと?もしかして?

まあでもキムタク好きでもキライでも、そこそこ楽しめる娯楽映画としてはすごくよくできてるマトモな映画だとは思いますよ。ウン。ふつーにおもしろかったです。
ぐりはべつにキムタクファンではないです。えーと、念のため。

今月もだまらっしゃい

2006年12月09日 | movie
『硫黄島からの手紙』
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観たよー。<ikarashoiさん
やー。よくできてたね。スゴイですよ。これほとんど、とゆーかまるっきり日本映画じゃん。もともと監督も日本人にオファーする予定だったのに、適任がみつかんなくてイーストウッド自ら演出することになったらしいけど、それってどーなの?日本映画界的にさ?『ラスト・サムライ』のときも思ったけど、こういう完成度の高い“日本映画”をハリウッドにつくられちゃって、日本では独自につくれないってヤヴァイんでないの?
宣伝コピーに「アメリカ側が5日で終わると考えていた戦いを 36日間守り抜いた日本の男たちがいた」とかなんとかゆーのがあったんだけど、既にそこからして激しく勘違い。主演の渡辺謙はインタビューで「戦争に英雄はいない」と繰り返し述べている。もうまったくその通りの物語だ。情報の行き届かない命令系統、圧倒的な物資不足、戦後日米両国から評価されたというほどの名将栗林忠道中将でさえ、錯綜する軍内の思惑に翻弄される。どれだけ天皇に忠実であろうと、生に貪欲であろうと姑息であろうと関係なく、生きるも死ぬも運次第。そんな地獄の36日間。すなわち、「アメリカ側が5日で終わらせようとした地獄が36日間に引き延ばされた」というくらいが穏当なほど悲惨な物語なのだ。

硫黄島二部作の一作め『父親たちの星条旗』に比べると、展開が非常に淡々としていて物語性は希薄だ。説明も少ない。硫黄島戦でもっとも兵士が苦しめられたのは、南国であるうえに火山性の土地特有の暑さと湿気だそうだが、この映画にはそういう気象条件などの環境を表現する描写もほとんどない。ただただ、指揮官も下士官も一兵卒も、口には出さなくてもほんとうは生きて帰りたいという一念で、ごそごそと洞窟を這い回り、故郷の家族を想い、また戦場を駆け回り、ある日突然呆気なく死ん?ナいく、そんな日々が地味に静かに描かれていくだけ。
日本人でもアメリカ人でも何人でも、生と死の狭間で感じること、求めることは変わらない、イーストウッドはそれをいいたかったのだろうと思う。そんな、どこも変わりのない人間同士が大義名分のもとに殺しあうのが戦争なのだ。主人公西郷(二宮和也)の職業をパン屋に設定したのもそのためだろう。古今東西どこの国のどんな街にでもあって、やることはみんな同じで、誰もが毎日通うような、小さな商店の主人。渡辺謙演じる栗林やバロン西(伊原剛志)は滞米経験もある当時の日本人としては特異な人物だが、そうした「アメリカを知る日本人」よりももっと、名もない下っ端の、ひたすら穴を掘ったり便所を掃除したりするだけの無知蒙昧な若者の方が、より時代や国を超えて理解されやすいはずだ。

この映画の下敷きになった『「玉砕総指揮官」の絵手紙』(栗林忠道著/吉田津由子編)をつい最近読んだ(どーでもいーけどこのタイトルはどーなの?栗林は“玉砕”はしてないんじゃないの?)。
ぐりはふだん映画をみる前に原作を読んだりしないのだが、この本は図書館で予約を入れたらあっさり順番がまわって来てつい読んでしまった。
採録された手紙の大半は戦前に書かれたものだが、硫黄島から家族に宛てたものも含まれている。だが文体にはそうした時間経過や時代背景による変化はあまりみられない。アメリカでドライブやパーティー三昧の贅沢な留学生活をしていても、硫黄島で水も食糧も乏しい苛酷な戦場生活をしていても、栗林は家族に対してはいつも同じただの「夫」ただの「父」でしかなかった。
でも戦地から家族に手紙を出したのは栗林ひとりではない。当り前のことだが、兵士ひとりひとりがみんな、もう会えないかもしれない親兄弟、妻や子ども、恋人や友人に宛てて届くあてもない手紙を書いた。それらは今日、連合軍側の軍事資料として英訳されたものがアメリカやオーストラリアの公文書館などに保存されていて、一部は『日本兵捕虜は何をしゃべ?チたか』(山本武利著)や『最後の言葉 戦場に遺された二十四万字の届かなかった手紙』(重松清/渡辺考著)で読むことができる。
栗林氏の手紙に登場する遺族は今も健在だが(訂正。直接手紙に出て来る遺族は現在全員鬼籍に入っている)、今回の映画の宣伝にはいっさい出て来ていない。栗林家だけじゃなくて、日本の戦争映画には、遺族の姿はまずまったくみうけられないのが一般的だ。どうしてかは?ョりにはわからない。あえて推測させてもらえるなら、渡辺の「戦争に英雄はいない」という言の通り、戦争で死んだ人間に、後になって人前で語るべき物語も資格もないと当事者は考えているのかもしれない。
しかしそれは違う。映画の中で栗林は「後世の人々がきみたちを悼んでくれる」というけれど、戦争で死んだ人間、生き残った人間には、後世の人間に語るべき言葉がある。遺族が語りたくないというならば生き残った人間に語ってもらうしかないし、我々は死んだ人間の言葉にももっとしっかりと耳を傾けるべきだと思う。
当事者不在のまま、感情論で「お国のために散った」英雄をまつりあげる戦争映画をつくりつづけてる場合じゃないと、ぐりは思う。