『希望の国』
大地震と津波の影響で原発事故が起き、近隣で酪農を営む小野家では当主・泰彦(夏八木勲)は息子夫婦である洋一(村上淳)といずみ(神楽坂恵)を促して避難させるが、自らは介護を必要とする妻・智恵子(大谷直子)とともに家に残る決心をする。
避難先で身籠ったいずみは放射能汚染を恐れ、メディアや地域社会との温度差に洋一は悩まされるようになる。
福島第一原発事故から数年後の架空の街を舞台に、園子温監督が描く人間の尊厳の物語。
設定は近未来で、一応フィクションということになってるけど、ぐりの知る限り、この映画の中で起こっていることは、だいたい現実に起きていることと変わりないと思う。
福島の事故で強制避難区域に指定された地域は、もともと自然が豊かで酪農や農業が盛んな地域だった。多くの酪農家、畜産家が家畜をみすみす死なせ、農地を放棄したが、なかには家畜が可哀想だからと居残って世話をし続けている有志は何人かいる。避難先では満足なケアがしてやれないからと、死を覚悟で要介護の家族と居残った人もいる。
生まれてくる子を守るために、周囲にどう思われようと必死に放射能を避け、そのために差別される若い母親。どんなに食事や生活環境に注意していても、内部被爆してしまう人もいる。どこにも逃げるところなんてないなら、怖がったって意味はないと開き直る医者。
もう誰もがみんな知っている。そういうことがこの日本のそこらじゅうで起きていることを。そして、正解なんてどこにもないということも。
事なかれ主義、横並びがとっても大切な日本で、ほんとうに自分が大切にするべきものを見失わないでいるのは、言葉でいうよりもずっと難しい。
そういう意味では、この映画に登場する3組の男女は現実離れしているかもしれない。智恵子との平穏な日々をひたすら守ろうとする泰彦とどこまでも彼を信じる智恵子。いずみと生まれてくる子の幸せだけを選択しようとする洋一。天涯孤独の身になった恋人・ヨーコ(梶原ひかり)と新しい家族を築こうとするミツル(清水優)。
彼らは何よりも愛が強いことを、愛さえ信じていれば間違いないと堅く信じている。
果たして現実にそれは可能なのだろうか。そこまで強固な愛とは、ほんとうに存在するものなのだろうか。
泰彦に避難を促す町役場職員ふたりのキャラクターがひどくリアルだ。年配の志村(菅原大吉)はあくまでも優しく、若手の加藤(山中崇)はやけにドライで、一見ふたりとも典型的な公務員のステレオタイプに見える。だが彼らもまた被害者であることに変わりはない。彼らは彼らなりに葛藤している。泰彦の心情に共感もし、だからこそ悩み、苦しみもする。
残念ながらこの映画には政府や中央省庁のキャラクターが登場しなかったけど、ここまでやるならそういう人も出てきてほしかったなと思う。だってほんとうにリアルだから、ビックリするくらい。
リアリティといえば、この映画のロケは福島県南相馬市で行われている。おそらく撮影時期は事故後1年前後の冬だと思う。画面の中に何度か見覚えのある風景が見えた。津波で破壊しつくされたままになっているのに、道路だけがかたづけられ、新品の電柱が綺麗に並んだ空虚な風景。
客席の後ろの方で、激しく泣いている人がいたけど、もしかしたら懐かしい場所が映っていたのかもしれない。彼女の泣き声に胸が痛んだ。
実をいうと予告編を観たときにはもっと刺々しい、頭でっかちな作品を想像していたけど、いざ観てみたらそんなことはまったくなくて、原発がどうこうという以前に、ほんとうに大切にすべきものを主体的に選びとる生き方の価値を、ただただ素直に誠実に描いている、シンプルなラブストーリーのようにも見えました。押しつけがましいところもないし、何か大上段に構えた大義名分もない。
ただ、膵臓がんを患いながら今作で主演して先月亡くなった夏八木勲の台詞の一言一言には、どうしても並みならぬ重みを感じてしまう。死期と戦いながらこういう作品を演じた彼の覚悟が、画面を通して突き刺さってくるように思えてしかたがない。
たぶんそれはこの映画に出演した俳優全員が持っていた覚悟でもあるだろうとは思う。だからこそこんなに豪華キャストなんだろうと思う。
あの事故から2年と3ヶ月が過ぎたけど、事態は何も解決していないのに、人々の関心はどんどん薄れていっている。政府は世界中に原発を売りまくっているし、国内の原発の再稼働も現実のものになろうとしている。事故の原因は究明されないまま、アメリカでは裁判にさえなろうとしているのに、電気は足りているのに、誰もなぜ本気でとめないんだろう。もうしょうがないと思っているのだろうか。
しょうがないってすごい便利な言葉だけど、確かにもうこの世の中には逃げるところなんてもうないのかもしれないけど、先々この事態のケツを拭くのは紛れもなく、子どもたち、未来の世代だ。
それを、親として、人として、なぜみんなで真剣に避けようとしないのが、ぐりにはどうしてもわからない。正直にいって、わかりたいとも思わないけど。
大地震と津波の影響で原発事故が起き、近隣で酪農を営む小野家では当主・泰彦(夏八木勲)は息子夫婦である洋一(村上淳)といずみ(神楽坂恵)を促して避難させるが、自らは介護を必要とする妻・智恵子(大谷直子)とともに家に残る決心をする。
避難先で身籠ったいずみは放射能汚染を恐れ、メディアや地域社会との温度差に洋一は悩まされるようになる。
福島第一原発事故から数年後の架空の街を舞台に、園子温監督が描く人間の尊厳の物語。
設定は近未来で、一応フィクションということになってるけど、ぐりの知る限り、この映画の中で起こっていることは、だいたい現実に起きていることと変わりないと思う。
福島の事故で強制避難区域に指定された地域は、もともと自然が豊かで酪農や農業が盛んな地域だった。多くの酪農家、畜産家が家畜をみすみす死なせ、農地を放棄したが、なかには家畜が可哀想だからと居残って世話をし続けている有志は何人かいる。避難先では満足なケアがしてやれないからと、死を覚悟で要介護の家族と居残った人もいる。
生まれてくる子を守るために、周囲にどう思われようと必死に放射能を避け、そのために差別される若い母親。どんなに食事や生活環境に注意していても、内部被爆してしまう人もいる。どこにも逃げるところなんてないなら、怖がったって意味はないと開き直る医者。
もう誰もがみんな知っている。そういうことがこの日本のそこらじゅうで起きていることを。そして、正解なんてどこにもないということも。
事なかれ主義、横並びがとっても大切な日本で、ほんとうに自分が大切にするべきものを見失わないでいるのは、言葉でいうよりもずっと難しい。
そういう意味では、この映画に登場する3組の男女は現実離れしているかもしれない。智恵子との平穏な日々をひたすら守ろうとする泰彦とどこまでも彼を信じる智恵子。いずみと生まれてくる子の幸せだけを選択しようとする洋一。天涯孤独の身になった恋人・ヨーコ(梶原ひかり)と新しい家族を築こうとするミツル(清水優)。
彼らは何よりも愛が強いことを、愛さえ信じていれば間違いないと堅く信じている。
果たして現実にそれは可能なのだろうか。そこまで強固な愛とは、ほんとうに存在するものなのだろうか。
泰彦に避難を促す町役場職員ふたりのキャラクターがひどくリアルだ。年配の志村(菅原大吉)はあくまでも優しく、若手の加藤(山中崇)はやけにドライで、一見ふたりとも典型的な公務員のステレオタイプに見える。だが彼らもまた被害者であることに変わりはない。彼らは彼らなりに葛藤している。泰彦の心情に共感もし、だからこそ悩み、苦しみもする。
残念ながらこの映画には政府や中央省庁のキャラクターが登場しなかったけど、ここまでやるならそういう人も出てきてほしかったなと思う。だってほんとうにリアルだから、ビックリするくらい。
リアリティといえば、この映画のロケは福島県南相馬市で行われている。おそらく撮影時期は事故後1年前後の冬だと思う。画面の中に何度か見覚えのある風景が見えた。津波で破壊しつくされたままになっているのに、道路だけがかたづけられ、新品の電柱が綺麗に並んだ空虚な風景。
客席の後ろの方で、激しく泣いている人がいたけど、もしかしたら懐かしい場所が映っていたのかもしれない。彼女の泣き声に胸が痛んだ。
実をいうと予告編を観たときにはもっと刺々しい、頭でっかちな作品を想像していたけど、いざ観てみたらそんなことはまったくなくて、原発がどうこうという以前に、ほんとうに大切にすべきものを主体的に選びとる生き方の価値を、ただただ素直に誠実に描いている、シンプルなラブストーリーのようにも見えました。押しつけがましいところもないし、何か大上段に構えた大義名分もない。
ただ、膵臓がんを患いながら今作で主演して先月亡くなった夏八木勲の台詞の一言一言には、どうしても並みならぬ重みを感じてしまう。死期と戦いながらこういう作品を演じた彼の覚悟が、画面を通して突き刺さってくるように思えてしかたがない。
たぶんそれはこの映画に出演した俳優全員が持っていた覚悟でもあるだろうとは思う。だからこそこんなに豪華キャストなんだろうと思う。
あの事故から2年と3ヶ月が過ぎたけど、事態は何も解決していないのに、人々の関心はどんどん薄れていっている。政府は世界中に原発を売りまくっているし、国内の原発の再稼働も現実のものになろうとしている。事故の原因は究明されないまま、アメリカでは裁判にさえなろうとしているのに、電気は足りているのに、誰もなぜ本気でとめないんだろう。もうしょうがないと思っているのだろうか。
しょうがないってすごい便利な言葉だけど、確かにもうこの世の中には逃げるところなんてもうないのかもしれないけど、先々この事態のケツを拭くのは紛れもなく、子どもたち、未来の世代だ。
それを、親として、人として、なぜみんなで真剣に避けようとしないのが、ぐりにはどうしてもわからない。正直にいって、わかりたいとも思わないけど。