落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

愛さえあれば

2013年06月17日 | movie
『希望の国』

大地震と津波の影響で原発事故が起き、近隣で酪農を営む小野家では当主・泰彦(夏八木勲)は息子夫婦である洋一(村上淳)といずみ(神楽坂恵)を促して避難させるが、自らは介護を必要とする妻・智恵子(大谷直子)とともに家に残る決心をする。
避難先で身籠ったいずみは放射能汚染を恐れ、メディアや地域社会との温度差に洋一は悩まされるようになる。
福島第一原発事故から数年後の架空の街を舞台に、園子温監督が描く人間の尊厳の物語。

設定は近未来で、一応フィクションということになってるけど、ぐりの知る限り、この映画の中で起こっていることは、だいたい現実に起きていることと変わりないと思う。
福島の事故で強制避難区域に指定された地域は、もともと自然が豊かで酪農や農業が盛んな地域だった。多くの酪農家、畜産家が家畜をみすみす死なせ、農地を放棄したが、なかには家畜が可哀想だからと居残って世話をし続けている有志は何人かいる。避難先では満足なケアがしてやれないからと、死を覚悟で要介護の家族と居残った人もいる。
生まれてくる子を守るために、周囲にどう思われようと必死に放射能を避け、そのために差別される若い母親。どんなに食事や生活環境に注意していても、内部被爆してしまう人もいる。どこにも逃げるところなんてないなら、怖がったって意味はないと開き直る医者。
もう誰もがみんな知っている。そういうことがこの日本のそこらじゅうで起きていることを。そして、正解なんてどこにもないということも。

事なかれ主義、横並びがとっても大切な日本で、ほんとうに自分が大切にするべきものを見失わないでいるのは、言葉でいうよりもずっと難しい。
そういう意味では、この映画に登場する3組の男女は現実離れしているかもしれない。智恵子との平穏な日々をひたすら守ろうとする泰彦とどこまでも彼を信じる智恵子。いずみと生まれてくる子の幸せだけを選択しようとする洋一。天涯孤独の身になった恋人・ヨーコ(梶原ひかり)と新しい家族を築こうとするミツル(清水優)。
彼らは何よりも愛が強いことを、愛さえ信じていれば間違いないと堅く信じている。
果たして現実にそれは可能なのだろうか。そこまで強固な愛とは、ほんとうに存在するものなのだろうか。

泰彦に避難を促す町役場職員ふたりのキャラクターがひどくリアルだ。年配の志村(菅原大吉)はあくまでも優しく、若手の加藤(山中崇)はやけにドライで、一見ふたりとも典型的な公務員のステレオタイプに見える。だが彼らもまた被害者であることに変わりはない。彼らは彼らなりに葛藤している。泰彦の心情に共感もし、だからこそ悩み、苦しみもする。
残念ながらこの映画には政府や中央省庁のキャラクターが登場しなかったけど、ここまでやるならそういう人も出てきてほしかったなと思う。だってほんとうにリアルだから、ビックリするくらい。

リアリティといえば、この映画のロケは福島県南相馬市で行われている。おそらく撮影時期は事故後1年前後の冬だと思う。画面の中に何度か見覚えのある風景が見えた。津波で破壊しつくされたままになっているのに、道路だけがかたづけられ、新品の電柱が綺麗に並んだ空虚な風景。
客席の後ろの方で、激しく泣いている人がいたけど、もしかしたら懐かしい場所が映っていたのかもしれない。彼女の泣き声に胸が痛んだ。
実をいうと予告編を観たときにはもっと刺々しい、頭でっかちな作品を想像していたけど、いざ観てみたらそんなことはまったくなくて、原発がどうこうという以前に、ほんとうに大切にすべきものを主体的に選びとる生き方の価値を、ただただ素直に誠実に描いている、シンプルなラブストーリーのようにも見えました。押しつけがましいところもないし、何か大上段に構えた大義名分もない。
ただ、膵臓がんを患いながら今作で主演して先月亡くなった夏八木勲の台詞の一言一言には、どうしても並みならぬ重みを感じてしまう。死期と戦いながらこういう作品を演じた彼の覚悟が、画面を通して突き刺さってくるように思えてしかたがない。
たぶんそれはこの映画に出演した俳優全員が持っていた覚悟でもあるだろうとは思う。だからこそこんなに豪華キャストなんだろうと思う。

あの事故から2年と3ヶ月が過ぎたけど、事態は何も解決していないのに、人々の関心はどんどん薄れていっている。政府は世界中に原発を売りまくっているし、国内の原発の再稼働も現実のものになろうとしている。事故の原因は究明されないまま、アメリカでは裁判にさえなろうとしているのに、電気は足りているのに、誰もなぜ本気でとめないんだろう。もうしょうがないと思っているのだろうか。
しょうがないってすごい便利な言葉だけど、確かにもうこの世の中には逃げるところなんてもうないのかもしれないけど、先々この事態のケツを拭くのは紛れもなく、子どもたち、未来の世代だ。
それを、親として、人として、なぜみんなで真剣に避けようとしないのが、ぐりにはどうしてもわからない。正直にいって、わかりたいとも思わないけど。

百万本のバラ

2013年06月16日 | movie
『故郷よ』

1986年4月26日、プリピャチ。
婚礼の最中に「山火事の消火活動に行く」といい残したまま帰らなかったアーニャ(オルガ・キュリレンコ)の花婿(ニキータ・エンシャノフ)。
原発技師アレクセイ(アンジェイ・ヒラ)は妻子を避難させ、黒い雨が降り注ぐ街で傘を買って人々に配ってまわる。
10年後、アーニャはチェルノブイリツアーのガイドとなり、アレクセイの息子ヴァレリー(イリヤ・イオシフォフ)は廃墟となったプリピャチで父を捜して彷徨う。
チェルノブイリ原発事故で故郷を追われた人々の悲哀を描く。

以前にも書いた通り、ぐりには郷土愛とか郷愁とかそういう感情がまったくない。
子どものころは早く大人になって地元を出ていきたいとしか思っていなかったし、出ていってからも懐かしいと思ったことはない。東京に住んで20年以上だけど、この街にもとくに思い入れはない。生まれてこのかたホームシックにかかったこともない。
だからこそあたたかい郷土愛は美しいと思うし、心底羨ましいとも思う。その場所が紛れもなく自分自身のための唯一無二の場所だと信じられる感覚なのだとしたら、自分には決して手に入らない心持ちだから、憧れる。
逆にいえば、その愛に縛られる苦しみは残念ながらよくわからない。ただの妄執のような気もするけど、かといって同情するのも何か違う気がする。
できることならわかりたいとは思う。わからなくても、受け入れたいと思う。心の底から、純粋に。

2011年製作なので、映画そのものは福島第一原発事故とは関係がない。
でもどうしても、どの場面にも、どの台詞にも、福島の現実を重ねて観てしまう。
それは制作者側の本意ではないかもしれない。だが福島の事故はもう起こってしまった。そして次にいつどこで起こってもおかしくない。好むと好まざるに関わらず、我々はそういう社会に生きている。
チェルノブイリで起こった悲劇の多くは、情報公開されない共産主義体制下で引き起こされたことだと誰もが思ってきた。事故の事実は一般市民には知らされず、危険区域の住民が避難するのに何日もかかった。私物の持ち出しは制限され、ペットや家畜を連れて行くこともできなかった。親しい人々は散り散りに引き離され、避難先では苛酷な差別と健康上の不安がつきまとう。
福島第一原発は共産主義国で起きた事故ではない。21世紀、情報主義社会下の民主国家で起きた。それでも、ことの成り行きはチェルノブイリとさして変わったようには思えない。国もメディアもほんとうの情報は教えてくれないし、事故はいつまでたっても収束しない、被災された方々は先の展望もなくただ苦しんでいる。
そのあまりの相似が痛すぎる。

美しいアーニャはフランス人の婚約者パトリック(ニコラ・ヴァンズィッキ)にたびたびパリへの引越しを促され、自分でも引越すと口にしておきながらなかなかそれを実行に移すことができないでいる。
住むことのできない故郷に日々通い、自身の肉体の変化に震え、「こんなところで腐りたくない」といいながら、自らその場に背を向けることを極端に恐れているように見える。その感情に理屈はないのかもしれない。今はもういない花婿をただ懐かしんでいるようにも思えない。
それでも彼女の気持ちはなぜかものすごくよくわかるような気がしてしまう。どうしてだろう。
ヴァレリーのりんごの木の詩も、ただ美しく悲しいだけじゃない。けどものすごくよくわかるのだ。
自分ではどうしようもない気持ち。他人にはわかってもらえることはないけど、どうしても一生大切にしておきたい、触れられたくない思い。
たとえ誰にもわからなくても、できるだけ尊重されるべき思いだと思う。
あの事故が、いつどこで誰の身に起きても不思議はないと思うから。ぐりの心に郷土愛が欠けていたとしても。

アーニャが歌う『百万本のバラ』の歌詞が、プリピャチを追われた人々の心情を思わせる。
女優に恋をして百万本のバラを捧げた貧しい絵描き。彼の思いを知ることなく一座は街を去っていく。
愛は二度と戻ってこないが、広場を埋めた百万本のバラは真っ赤に美しい。
事故当時、ウクライナは遅い春の真っ盛り、アーモンドやりんごの花が咲き乱れる、一年で最も美しい季節だった。
例によって黙示録第8章の
「第三の御使 ラッパを吹きしに ともしびのごとく燃ゆる大なる星 天より隕ちきたり
川の三分の一と水のみなもとの上におちたり
この星の名はにがよもぎといふ
水の三分の一はにがよもぎとなり 水の苦くなりしに因りて多くの人 死にたり」が
この映画にも登場する。
“にがよもぎ”がウクライナ語で“チェルノブイリ”と同義であるという説があるが、“チェルノブイリ”とはもともとウクライナ語でよもぎを意味する“チョルノブイリ”が語源であり、「チェルノブイリ原発事故が聖書に記載されていた」という説は英語圏のキリスト教徒の間で信じられている一種の都市伝説である。
だがこの事故が、生命のすべてが一気に萌えはじめる美しい季節に起きたことが、人々をそう信じさせているのかもしれない。
映画の中のウクライナもただただ美しい。悲しくなるほど美しい。その情景も、福島の春に重なる。重ねちゃいけないのかもしれないけど、それでも。

目を閉じて楽しい事を考えなさい

2013年06月15日 | movie
『インポッシブル』

2004年、マリア(ナオミ・ワッツ)とヘンリー(ユアン・マグレガー)は3人の息子─ルーカス(トム・ホランド)、トマス(サミュエル・ジョスリン)、サイモン(オークリー・ベンダーガスト)─を連れてクリスマス休暇を過ごすためにタイ・プーケットのカオラックを訪れる。
実際にスマトラ島沖地震で被災したスペイン人一家の体験を映画化。ナオミ・ワッツは本作でゴールデングローブ賞とアカデミー賞を受賞している。

2011年3月11日に東日本大震災が起きてから今日まで、あの地震と津波を忘れたことは一度もない。
いつもいつも、何を見ても何を聞いても、何も見なくても何も聞かなくても、常に東北のこと、被災した地域のこと、人々のことを考えている。
問わず語りにあの混乱の日々のこと、絶望的な体験のことを話してくれた人たちの言葉を考える。帰っては来ない日々の思い出を語る人もいる。その寂しさ、悔しさ、悲しさ、切なさ、つらさ、苦しさを考える。
あれから2年経ったけど、震災はまだ終わっていない。いつ終わるとも知れない長い長い「復興」という苦難の運命を背負わされた人たちの苦悩を考える。

その意味で、この映画の主人公マリア一家の津波は既に終わっている。
なぜなら彼らは被災地域の住人ではないからだ。設定では日本に住んでいるイギリス人一家ということになっていて、プーケットにはあくまで旅行者として訪れている。生活の基盤と災害は無関係だから、被災地を離れてしまえば、あとは自分のもとの生活に戻れる。
だからこそ映画にできたのだろうという気がする。災害は簡単にフィクションで再現できるものではない。リゾートに家族旅行に来た異邦人の一時の体験という形だからこそ、シンプルに、コンパクトに、それでも驚くほどリアルに、9年前の災害を再現できたのだ。
他には何も登場しない。役名のある登場人物も純粋にこの一家のみとなっている。そこまで限定してあるからこそ、忠実に、誠実に災害を表現できたのだろうと思う。

別の意味で、この映画は津波の話ではなく、家族の話だ。
ホテルのプールで津波にさらわれた一家は散り散りになりながらも、必死に互いを探し求め、持てる勇気のすべてを振り絞り、最後まで希望を捨てずに被災地の混乱に立ち向かっていく。
だが彼ら全員がもともと勇敢な人間だったわけではない。臆病なマリアとトマス、神経質なヘンリー、打算的で生意気盛りのルーカス、まだ5歳でなにひとつひとりではできないサイモン。
そのひとりひとりが、それぞれに愛する人と再会したい、支えあいたい、いっしょにいたいというひとつの思いで堅く結びつきあい、その思いによって強くなっていく。
「ひとりになってしまったと思ったときが一番怖かった」「ひとりじゃないとわかって怖くなくなった」という台詞に考えさせられる。自分ならこんなとき、いったい誰のそばにいたいと願うのか、思いつかなかったからだ。

津波の映像がむちゃくちゃリアルで、とくにショッキングだったのは引き波の水中でかき回されるマリアの映像。
東北で聞いた話でも「まるで洗濯機のなかでかき回されるよう」と表現されていたけど、その洗濯機の中身は人間だけではない。地上から引き剥がされバラバラに破壊されたあらゆるものが、無防備な人間の身体と一緒に凄まじいエネルギーで暴力的に引きずり回される。抵抗のしようもない。
観ているだけで呼吸もできなくなるような、生々しく恐ろしい映像だった。正直にいって、まともに画面を観ているのもつらかった。そんな津波に飲み込まれながらも生還した人にとって、その体験の前と後では、おそらく生きる意味が、自らの存在意義がまったく違ってしまうのだろうということがひしひしと感じられる。
自分で体験したいとは絶対に思わないけど、これまでに観た津波の「水面」の映像とはまったく違った、フィクションならではのリアリティを感じました。

禁断の果実

2013年06月13日 | movie
『奇跡のリンゴ』

子どものころから機械いじりが好きな変わり者の秋則(阿部サダヲ)は郷里・青森のりんご農家に婿養子に乞われ結婚。
新妻・美栄子(菅野美穂)が農薬過敏症だったために、年十数回散布していた農薬をやめることを決意するが、周囲の反発は激しく、りんごは実らず、食べるにも困るほどの極貧の中でやがて自分を見失っていく。
世界で初めてともいわれるりんごの無農薬栽培に成功した木村秋則氏の苦難の11年を映画化。

食べること、それは生きていくこと。
人が生きることの基本、それは食べること。
食べないで人は生きられない。人は食べるために働き、食べることを生きる喜びに、生活の中心として暮らしている。
ぐりがそのことにほんとうの意味で気づかされたのは、震災から1ヶ月余り後の宮城県石巻市でキッチンボランティアとして活動したときだった。
家も仕事も何もかもを失って被災された方々に、せめて食事だけでも楽しんでほしいと願ったあのとき、支援物資として提供される無農薬や有機農法の良質な野菜をつかって皆さんの食事をつくらせてもらえることが、とにかくとても嬉しかった。安全でおいしいものが、人の心を、命を、つらい日々の暮らしを支えていた、そこに参加できた喜びは、ぐりの一生の宝物のひとつだ。

結論からいえばこれはりんごの映画ではない。
りんご栽培って?農薬ってなに?無農薬ってどうやって?という情報の細部は映画の中ではほぼ再現されない。農業の映画でもないです。
ここで描かれるのはあくまでも、おいしくて安全なりんごを安全に育てようとする、バカがつくほど善良で真面目で一生懸命な、心のあたたかい人たちの物語。りんごという食べ物はその狂言回しのようなものだ。
まず秋則が婿入りした木村家の舅・征治(山崎努)の人格がすごい。婚礼の席では「お義父さん」と呼びかける秋則を「おやじでいい」と寡黙に突き放すが、新しい農法に挑戦したいという秋則の意志を決して否定せず、陰に日向に黙って支え続ける。何年もりんごが収穫できず、婚家の家財を食いつぶす“かまどけし”息子の行為を詫びに来た秋則の両親(伊武雅刀/原田美枝子)に対しても、あっさりと「秋則がしたことはわしの責任だ」「秋則はわしの息子だ」と婿をかばう。ふつうに考えたらできることではない。
だが征治は何事があろうとほとんど喋らず顔色ひとつ変えないので、心の中でどう思っていたかはなかなか推し量れない。酒を飲みながら言葉少なに戦争体験を語った短い場面でも、征治は秋則のしていることに直接的な意見はいわない。ただ共感している気持ちだけがひっそりと伝わってくるだけだ。

木村氏の偉業は確かにすばらしいが、映画では、無農薬りんごの成功は決して彼ひとりの成功ではなく、舅をはじめ彼を支えた家族、親友、地域の人たち、その他多くの人々の優しさと豊かな環境の賜物だったことが、ごく丁寧にやさしく、ほのぼのと描かれている。
とはいえ、失敗したりんご畑の再現はかなりリアルなので虫系がダメな人はちょっとキツイかも。とりあえずムチャクチャいろんな種類の害虫がごっさりでてきます。
しかし最終的には秋則はその虫たちも含めた、大地に生きとし生けるものすべてを味方につけ、見事においしいりんごを実らせる。食べ物を育てる者のみが味わう無上の喜びが、家族の笑顔に溢れる。

かのスティーブ・ジョブズはいった。

クレージーな人たちがいる
反逆者、厄介者と呼ばれる人たち
四角い穴に 丸い杭を打ちこむように
物事をまるで違う目で見る人たち

彼らは規則を嫌う 彼らは現状を肯定しない
彼らの言葉に心をうたれる人がいる
反対する人も 賞賛する人も けなす人もいる
しかし 彼らを無視することは誰もできない
なぜなら、彼らは物事を変えたからだ
彼らは人間を前進させた

彼らはクレージーと言われるが 私たちは天才だと思う
自分が世界を変えられると本気で信じる人たちこそが
本当に世界を変えているのだから

Think different.

木村氏が失敗し続けていたとき、多くの人は彼を狂人と嘲り、蔑んだ。しかし無視することはできなかった。そして彼は「物事を変えた」。
無農薬でもおいしいりんごが立派につくれることを証明した、彼のりんごは確かに、知恵の木の果実だ。
今は本業のりんごづくりより講演活動や農業指導に多忙で、奥さんは寂しい思いをしているという。「リンゴが実らなかったときの方が一緒にいられたからよかった」、たとえりんごが実らなくても、いっしょにいられれば幸せ、そんなすてきな愛の果実。
原作も是非読んでみようと思います。

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この愛に生きて

2013年06月11日 | book
『恋文讃歌』 鬼塚忠著
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東京でその日暮らしをしていた隆に、鹿児島の母から祖父が危篤だとの報が届く。隆が物心ついたときには“廃人”状態で個人的な交流もなかった祖父・達夫だったが、その枕頭で祖母・テルからふたりの愛を引き裂いた戦争の悲惨さを聞かされ、衝撃を受ける。
『海峡を渡るバイオリン』の共著者・鬼塚忠が自身の体験を下敷きに描いた大河ラブロマン。

実際に著者が祖母から聞かされた話をもとにしているというので読んでみた。
実をいうと、ぐりも数年前に他界した祖母の人生を何かの形に残したいという夢がある。1910年、日韓併合の年に生まれ、生涯恋を知ることも愛を知ることもなく、ただひたすら苦労しつづけた祖母。これまでにも何度かこのブログでも触れたが、彼女は日本語が話せず、ぐりは朝鮮語を話せなかったため、生前ほとんど会話することもできず、ぐり自身の両親も戦後生まれで祖父母の朝鮮時代~渡日前後の事情は何も知らない。手がかりらしいものも今となっては何もない。でも、ぐりが知る範囲内でも人間としてこれ以下はないという辛酸をなめつくした彼女の生きた証を、いつか何かの形にしたいとは思っている。

達夫とテルは家庭教師と教え子として出会い、達夫の教師としての朝鮮・元山への赴任を機に結婚。1940年のことだった。
戦時下ではあっても大恋愛で結ばれたふたりは幸せな新婚時代を過ごしたが、1944年、戦局が厳しくなり招集を免除されていた教職の達夫も入営を命じられる。
孤独の中で隣人に助けられ、テルは長女(隆の母)を出産、そして敗戦。ソ連軍から逃れるための地獄のような引き揚げの旅が始まる。
ものすごくドラマチックな話だと思うし、鬼塚忠の他の著作と同じように、これもたぶん映像化されるんだろうなという印象はうける。すごくわかりやすいのだ。ぶっちゃけていえば子ども向け、十代の少年少女が読むにしてもちょっとと思うくらい、一面的で奥行きがない。人物造形には個性がなく、情景描写にもなんの葛藤もない。せっかくテルの視点と達夫の視点を交互に描く構成にしたにも関わらず、ストーリー展開は一本調子で、オリジナリティはどこにも見受けられない。タイトルになっている恋文のエピソードもそれほど響かない。同じような背景・設定の『朱夏』(宮尾登美子著)に比べれば小説としての完成度はどうしても見劣りがするし、シベリア抑留の経験談としても『プリンス近衞殺人事件』(V.A.アルハンゲリスキー著)とか『クラウディア 最後の手紙』(蜂谷弥三郎著)と比べると臨場感に欠ける。

ただ、30年以上間近にいながら知ろうともしなかった祖父母の若き日のドラマに接した著者の感動はとてもよく伝わってくる。
だから、戦争を体験した祖父母の話を聞いてほしいという願いだけは素直に心に響く。
『蟻の兵隊』の舞台挨拶のとき、奥村和一氏も「おじいさんおばあさんに戦争の話を聞いて下さい」と真剣に観客に語りかけていた。きっと話したいことがあるから、話すことで解放されることもあるから、聞いてあげてほしいと、彼はいっていた。そんな奥村氏も一昨年鬼籍に入られた。
けどほんとうは、私たちは私たちのためにこそ、そして未来の子どもたちのためにこそ、過去の人が体験してきた歴史を語り継がねばならないのだ。ほんとうに大切なものを決して忘れないために、ほんとうの幸せを自らこの手につかんで離さずに生きていくために。
ぐりも心から思う。戦争の頃のことを話してくれる人たちが元気なうちに、誰もが、目の前のその声に真摯に耳を傾けてほしい。本物の平和な未来は、そこからしか築けないと思うから。

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