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100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

12年昔の約束。

2016年07月23日 | 千伝。
ちょうど12年前の今日、富士山頂上まで出かけて参りました。

12年後の今日、同じく同ルートで目指すつもりでしたが、急遽明日の日中に用事が出来ました。

一日延期、明日出発予定です。

今回は、富士山山頂ではなく、六合目ぐらいまでが目標です。


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初めての富士山山頂到着・御来光、そして下山までの記録:

2004年(平成16年)7月24日(土)~25日(日)、富士山に登ってきました。

上り下りの際、「富士山め!!」と思いながらも、何とか良い思い出となりました。(笑)

最初は、息子と親子登山を計画していましたが、息子の体調を考えると単独行と相成りました。

加えて、突然の福井豪雨の被災地へのボランティア活動もあり、予定延期も考えましたが、この時を逃すと、いつになるのかわからず、このたびの強行軍となりました。

この達成感は、見ず知らずの何十人もの方々が、「がんばってください」「お気をつけて」とか、いろんな合い言葉の励みがあってこそだとも考えています。

以下、雑記のような書き方ですが、自分の人生の貴重な思い出になった、と実感がこみあげてきます。

2004年7月23日(金):

深夜23時、福井の自宅を車で出発。

偶然、カーラジオからNHKの深夜宅急便で、大林宣彦氏が、「故郷、尾道」をテーマにしたお話が、延々と流れてくる。

故郷を思い出しながら、山々を抜ける。

福井県美山町を通りすぎて、豪雨被害の凄さを、まざまざと思い知らされる。

それを越えた、もっと奥深い山間部の大野市や和泉村は、ほとんど被害に遭っていない。

「負けるな福井県」というローカルニュース。
(ジャンボ宝くじの当選金2億円を義援金として福井県に寄附したという出来事。)


7月24日(土):
九頭竜湖を通り抜けて、油坂峠を超えて岐阜県に入る。

白鳥村の道の駅で、深夜2時頃休憩。

愛知県から、これから白山に登るという夫婦と少し会話。

岐阜県白鳥から高山を通り抜け、安房トンネルを抜けて、長野県の諏訪湖湖畔まで一気に休息無しで走る。

山、山・・トンネル、トンネルである。

片側一車線の道を関東からの対向車が上高地や乗鞍、北アルプスをめがけて走ってくる。

そのライトに辟易。

夜が白く明けて、諏訪湖湖畔着。

コンビニで買ったパンで、一人湖畔で朝食。

朝食後、そのまま山梨県まで走る。

南アルプス市から本栖湖の周回道路へ。

そこから、朝霧高原の「道の駅」で時間待ち(富士新五合目10時着予定)。

富士宮市新五合目に午前10時過ぎ着。

駐車場満杯状態。

駐車場を一周りして四合目まで降りて駐車しようと覚悟。

その時、偶然運良く空きスペースを確保。

夕方5時まで車の中で仮眠後、午後6時登山開始予定。

しかし、早くも高山病の気配。

気持ちが悪く、眠れない。

時間が、刻々と過ぎていく。

ここまで来て、このまま登山断念する自分を許し難い。

意を決して、午後1時半頃、五合目をスタート。

だらだらと、富士山登頂開始。

六合目に午後2時頃着。

ベンチに座る。

隣りに、お孫さんを連れたご夫婦との会話。

「八合目で孫も自分も頭が痛くなったので引き返して下山中です」とのこと。

「実は、息子夫婦が今日、富士山山頂で結婚式を挙げているので、行きたかったが諦めた」とおっしゃる。

でも残念そうな気配もなく、実に明るい御夫婦、御人柄に思えた。

新七合目に午後3時半頃着。

かなりヘバル。

用意したペットボトル3本を飲み干して、飲み物がない。

ポカリスエット2本買う。

隣りに座ったカップルは、チリからの観光客だったが、ヘトヘトで話し掛ける気分にもなれない。

元祖七合目に午後5時頃着。

また、ポカリスエット2本買う。

少し頭がボーとする。

吐き気がしてきた。

高山病かもしれないと思った。

黙々と、腹式呼吸を繰り返す。

徹夜ドライブ明けのままの富士山登山を後悔する。

「歯を食いしばって、がんばれ」というが、歯を食いしばる時は、唾を飲み込む時だ。

口の中が砂だらけ。

砂を噛むようだ。

唾、涎を極力吐き出すことにした。

八合目に午後7時頃着。

これからが、ほんとうの富士登山の始まり。

気を取り直し、たっぷり休憩時間を取る。

九合目に午後9時前頃着。

辺りは、すっかりと暗い。

急速に、冷えて寒い。

食堂でうどんを食べる。

自動販売機があった。

何を買って飲んだか記憶がない。

昼間は雲に隠れていたが、下界の眺めが素晴らしく良かった。

どこの街かわからないが、花火を打ち上げている。

その花火が「せんこう花火」のように小さく見える。

下界を眺めながら、隣りの若い人と話す。

「ここの室で宿泊して、早朝1時半頃、ご来光を見るために出発する」という。

5合目あたりを見ると、次々と車のランプが見える。

これから、徹夜登山を開始しようとする人達の車であろう。

ただ駐車スペースが無くて困っているのではないかと、余計な心配をする。

外は真暗、冷え冷えとしてきた。

隣りの若い人が、「これから、まだ登るんですか?」と聞いてきた。

「防寒着、用意していますか?上は、かなり寒いですよ。お気をつけて!がんばってくださいね。上で会いましょう」

一期一会の出会いだったが、大変嬉しい会話だった。

気合を入れ直す。

ヘッドライトを点けるかどうか迷ったが、電灯なしで登ることにした。

九合五勺(標高3,590M)。

2-3人の宿泊客が、外に居た。

お茶のペットボトル2本買う。

かなり、頭痛がする。

足の痛みよりも、眩暈である。

体力の限界のようである。

ここで泊って一時休息すべきか、どうか迷う。

下界をじっと眺めながら、杖に祈りを込める。

「これから登るのですか?」と同年代ぐらいの方が話しかけてきた。

「昨日、五合目で泊って、今日、ここでもう一泊して、明日、富士山に登るんです」

聞けば、24畳のスペースに48人が、ここで男女区別なく雑魚寝して、翌朝2時半頃、ここから登頂するようである。

この方、3度目の富士山登頂のようだが、一度目は五合目で、二度目は九合目で高山病になったという。

上からも下からもゲロを吐いて失敗して、今回こそ、3度目の正直を狙っているようである。

高山病の恐ろしさを得々と説明してくれる。

この日も、七合目でヘリコプターを呼べという大騒ぎがあったらしい。

今ここで、少しでも横になったら、そのまま寝入ってしまうような気がした。

あとには、戻れぬ。

登頂を目指す。

御来光を必ず仰ぐ。

自分の体力の限界を超えている。

福井豪雨以来、口の中は、口内炎だらけ。

梅干を一個噛む。

余りの沁みるような痛みが口の中を走り回る。

飲み水がない。

死に物狂いで登る。

遂に、富士宮口の山頂に着。

夜10時頃だっただろうか?!

しかし、達成感も何もない。

山頂は、賑やかなところだと思っていたが、恐ろしいぐらいの静けさに愕然とする。

それよりも、飲み水が欲しい。

咽喉が、カラカラに乾いている。

そうだ!

山梨県河口湖側の方へ行くと、きっと賑やかにちがいない。

店もやっているのに違いない。と推測して歩き出す。

深夜の富士山頂の外輪山(剣が峰を筆頭とした)を歩き出すと、非常に不気味である。

深夜、誰一人、人っ子一人歩いていなかった。

途中、どこの道を歩けばいいのか判らなくなった。

頭が痛い。

高い丘があったので行くと、外輪山の成就ヶ岳というところだった。

もう、足が重い。

そのまま砂岩の上に横になった。

三日月が美しく浮かんでいる。

美しく思えた瞬間、とうとう気分が悪くて、吐いてしまった。

このまま凍死か、高山病で死ぬような気がした。

女房、息子、身内のことを考える。

「こんな所で死んだら、無謀な登山者。嘲笑われる。」と考えた。

四つん這いのような状態で、1メートルでも標高の低い場所に身体を移す。

ふっと下界を覗き込むと、夜景が素晴らしい!

右方向に沼津、左方向に小田原、熱海の夜景だと思う。

伊豆半島の根っこが地図そのままのように見えた。

沼津に住むネットの友達を思い出した。

あの街灯りのどこかに暮しているんだろうなぁ。

急に元気になった。

道なりに進み下るとトイレがあった。

もうちょっと進むと、山梨県河口湖からの登山口である。

御来光を臨む場所があった。

自動販売機があった。

温かいお茶の缶を買う。

誰もいない。

たった独りだった。

温かいお茶を飲む。

目線の前に星がある。

仰向けになると満天の星。

日本で、今の瞬間、自分一人だけが独占しているような気分になった。

何とも言えない気分になった。

じわじわと富士山山頂到達の達成感が湧いてくる。

下界を覗くと下から左右に上に登ってくる蟻のような、蛍の光のような行列が上にまで伸びてくる。

深夜0時頃だ。

ガサガサと後ろから音が聞こえてくる。

振り返ると両手にステッキを持った外国人がいた。

一人から二人になったと喜んだ。

聞けば、パプアニューギニアで医者をしているドイツ人で、「サマーバーケションで日本に立ち寄って富士山に登りにきた」という。

御来光時間は、午前4時45分だと伝えると、外輪山を一周してくるという。

こういうタイプの人と、以前どこかで会ったような気がする。(?!)

こういうタイプは、冒険心旺盛で、富士山火口の底まで入っていく。

0時を過ぎると、まばらに人が増えてくる。

カメラ撮りの一番良い場所をキープするために早く登ってくるようだ。

夕方5時頃に登山スタートして写真を撮りながら登ってきたとのこと。

1時過ぎ、人が、また増えてきた。

それにしても寒い。

チョコレートがカチカチに固まっていた。

零下1-2度ぐらいの寒さだ。

辛抱強く、寒さに耐える。

2時過ぎ、どんどん人が増えてくる。

寒い。

冷える。

2時半、店が開く。

「ここで飲食する人だけ入ってくださ~い」と呼び込みがあった。

荷物だけを置いて、一目散に店の中に入った。

炭火で温まる場所に座る。

お茶を買って頼んだ。

殆どの方が、茫然自失のような疲れ切った表情である。

右隣りは、福生から来た若いアメリカ人だった。

空軍のエアーフォースのエンジニアだそうだ。

二人で来る予定だったが、もう一人が病気になったので一人で来たという。

9月にテキサスに異動になると言うので、日本の思い出作りのために富士山に登ってきたという。

左隣りは、三重県伊勢から来たご婦人連れ三人だったが、聞けば34人の富士山御来光ツアーできたという。

あとで解ったが、34人中、登頂できたのは7人だけだったとおっしゃっていた。

4時前、この方々を連れて、ぼくがキープしていた場所に案内する。

ものすごく人が増えている。

雲海上に薄いオレンジ色の一直線が伸びる。

少しづつ少しづつ、そのオレンジの線が太くなっていく。

それを凝視していると、一瞬パーと明るくなり、薄いオレンジ色が、淡いピンク色に変わる。

おぅ!と叫ぶ。

星が消えて真っ青な世界に変わっている。

この時、河口湖側からの登山者が何故多いのか、よく解った。

御来光は、富士山のこの側面方向から昇る。

もう後ろは、押すな押すなの圧し合いの状態である。

今か今か、御来光間近かである。

すると、今度は、そのオレンジとピンクの帯びが、雲海の上を「さざなみ」のように、こちらに向ってくる。

予想外の自然現象の展開、大きなどよめきが起こった。

感動的なシーンである。

そして、御来光。

どこから昇るのか不思議でたまらなかった。

青色の背景世界からオレンジ、ピンクのさざ波の手前から、ひょこり真っ赤な小さな玉が浮かんでくる。

(夕日の海の中から真っ赤な蛸の頭が、浮かぶような)

おぅー、おぅーと歓声が上がる。

御来光である。

2004年(平成16年)7月25日。



ツアーの案内人だろうか「ありがとうございました」と言いましょう!と声があがる。

最後には、万歳三唱をしましょ!というアナウンスがあった。

御来光を臨んだ富士山山頂に居る全員で、「バンザイ、バンザイ、バンザイ」万歳三唱をして、御来光を無事見終えることができた。

ものすごい人の群れである。

富士山山頂で、暑中見舞いの葉書を書く。

手が震えて、巧く字が書けない。

内輪山を一回り(お鉢廻り)をする。

途中、何十人もの人が、ぐったりと座り込んでいた。

日本最高峰の剣が峰(3776M)まで、何とか辿り着いた。

当日の朝、12年に一度、申年の年に、富士山本宮浅間大社の鳥居が取り換えられる。

その鳥居を見て、12年後、また登りたいと祈願する。

下山。

足が、千鳥足状態でフラフラ。

八合目で、熱中症になる。

臨時診療所で小1時間、横になる。

七合目から土砂降りの雷雨に出会う。

雷が、横を走るとは・・ビックリ。

午後2時頃、富士宮五合目に無事帰還到着。

着替える気力無し。

ソフトクリームが、急に食べたくなった。

びしょ濡れ状態のままで、視界の無い霧の中を富士宮の街を目指す。

欲しいのは、ソフトクリームだ。

下界で雨が止んでいる所で、着替えた。

T-シャツと短パンになる。

ソフトクリームを探し当て、食べながら何杯も冷水を飲み干した。

おいしい!

携帯電話が、土砂降りの雷雨の中、水没で故障した。

足に豆が出来た。

海が見たくなったので、太平洋側から帰ることにした。

富士市から、高速道に乗る。

愛知県あたりで、前の車が二重に見える。

完全に居眠り運転である。

養老サービスエリアで熟睡、爆睡。

朝、養老SAで目覚める。

そこで、朝食バイキング後、7月26日昼前、無事帰宅。

金剛杖が残った。

この杖が無かったら、到底富士山に登れなかったと思う。

もうひとつ、六根清浄(ろっこんしょうじょう)と唱えながら登ることを忘れていた。

それぐらい気持ちに余裕が無かった小生の富士山登山記である。

天運に感謝する。