耳が不自由な方は、字幕付きの映画を観ます。
口伝は不可能であり、そのために言葉、文字が必要なのです。
目の不自由な方は、形相という美醜を、音で判断します。
形相が、化相に変わります。
音の強弱、音色の優しさ、穏やかさが、ものの基準判断となります。
では、老いた親、老いた母という存在は、何が必要となるのかな?
家族会議のため、百島へ帰省して参りました。
兄弟3人、東京、福井、そして、広島に立ち寄って、打ち合わせをしながら同時に一緒に、百島へ帰省したのは、多分初めての家族行動でした。
家族、身内、兄弟と言えども、各々が歳を取り、居住地が離れて、身体が不自由になれば、互いの冠婚葬祭にも出席できない状態になります。
そして、百島に親族、身内がいなくなる・・・故郷に寄りかかる理由も無くなるという現実に直面しています。
いろいろとありますが、それでも、我が家の家族会議は、明るいです。
百島のご近所の皆さまに助けられていることに、格別に感謝しています。
さて、百島で過ごした少年時代は、「井の中の蛙大海を知らず」と教わりました。
世界には、大きな海が存在していて、自分が今見えている世界がすべてだという見識の狭さを示しています。
ところが、世界は混沌の中、見識を疑うような犯罪や人災は、所憚らず起こります。
・・・昔、百島の祖母が言っていた言葉。
兄が教えてくれました。
「転んだら怪我をしたようでなし、怪我をしたら死んだようでなし、死んだら殺されたようでなし、殺されたら殺したようでなし。騙されたら騙したようでなし。」
罰(ばち)が当たらない処世術が、百島の祖母の時代には、存在したのでしょう。
今の時代は、「騙される方が愚か者」という風潮が支配気味なので、罪(つみ)が深いです。
少年時代、ぼくらは、勘違いをしていたかも?
百島は、「井の中の蛙大海を知る」という世界を教えてくれる場所だったのでは?
・・・百島の夜会。
耳を澄ませば、虫の音、鳥の声も、霊の囁きも静かに聴こえてきます。
目を凝らせば、満天の星屑がちりばめるほどではないですが、星々が、はっきりと美しく輝いています。
ひとつひとつの言葉の意味、この世に存在する言葉、文字は、すべて、この世(宇宙)に存在します。
言の霊も、物資です。
願いも、想いも、物質です。
だから、死んだあとの「魂」も物質になります。
形相が、化相に変わります。
幽霊、これも、物質です。
過去の物質ではありません。
幽霊は、未来から来た物資(モノ)なのです。
だから、我々は、よりよい未来を願い、神や仏やご先祖様を頼りにします。
百島の夜会から。