岡崎市から、矢作川の葵橋を渡ると、豊田市に入ります。
豊田市といえば、日本を代表する製造業トヨタ自動車の本社拠点、その住所も豊田市トヨタ町となっています。
そのトヨタ関連のビル群が連なるトヨタ町を抜けて、右折すると、右側に大きな豊田スタジアムを目にしながら、再び矢作川の高橋を渡ります。
間もなく、豊田市百々町に入ります。
急に長閑な田舎の風景に変わります。
道も細くなり、どこから百々町なのかな?と思い始めていると、百々町のバス停を見つけました。
道幅は、彦根市百々の中山道と似ています。
誰も歩いていません。
余所者が、この界隈を歩いていると、不審者と思われるような雰囲気でした。
それでも、たまたま庭に出ていた方々に訊くと、驚くことに皆さん、同地名となるお隣りの岡崎市百々町の存在を知っていました。
つまり、豊田市百々町の謂われを気に懸けているのでしょう。
ある方の「堂々と生きろ」ということで、百々(どうど)という地名になったという説には、感心しました。
室町時代から百々城があった岡崎市百々町の方とは、全く逆の反応にも考えさせるものがあります。
かつて、豊田市百々町は、矢作川沿いに古くから木材の蓄積場があったとのこと。
舟使い、木材加工、城造り、百々一族の歴史の足跡が見え隠れします。
豊田市百々町の方々に感謝❗
また、訪ねたい豊田市百々町です。
岡崎市のICを降りると、「徳川家康の生誕地」と書いてある大きな看板が目に入ります。
そこから北西の方向に7キロほど向かうと百々町に辿り着きます。
事前学習したにも関わらず、岡崎市の百々町は、想像していた以上に住宅新興地でした。
百々西町は、人口が増えているとの事。
そのせいか、立派な保育園もありました。
その校章?、園章が、ユニークでした。
室町時代、この地に百々城があったとのこと。
豊臣秀吉の時代、徳川家康が関東に移封された時、廃城になったとのこと。
百々城の城主は、松平家の家臣だった青山家だったとのこと。
その青山家は、江戸時代に入ると、美濃の郡上八幡の藩主となります。
「岡崎は江戸の故郷」とも言われています。
東京の青山通りの地名の謂われは、青山家の屋敷跡。
新宿御苑の内藤町の謂われも、三河武士内藤家も岡崎から、徳川家康とともに江戸へと引っ越しした屋敷跡。
さらに、半蔵門は、伊賀一族の服部半蔵の名が由来だとの事。
二代目服部半蔵(正成)も、岡崎生まれ。
そういえば、百々町に入る手前に、伊賀新町という町名がありました。
それでは、岡崎の百々町は、百々一族と関わりが有るのか無いのか?
・・・疑問です。
強いて、無理矢理に共通項を考えてみました。
青山家のルーツが、岡崎の百々であるならば、その後、藩主となる郡上八幡の盆踊り「春駒」、百島の盆踊りの最後の演目が「春駒」と重なっている事ぐらいかなぁ?
百々公園の近くに暮らす自治会副会長さんに尋ねると、百々という地名の謂われに関しては、昔、百々城があったという認識しかないとのこと。
お隣りの豊田市にも百々町があるのを御存じですか?の問いには、ほとんどの方々が知らないとのことでした。
今一つ、今百つ、モヤモヤ感が残る達成感無しの取材体験でした。
しばらく、百々公園で自省反省。
さて、この岡崎市百々町から直線にして約15キロ程度の位置にある豊田市百々町を目指すことにしました。
矢作川の葵橋を渡リ、豊田市に入りました。
岡崎市百々町の方々に感謝❗
また、訪ねたい岡崎市百々町です。