10数年前、東京が広島の代わりに日本のオリンピック開催都市に立候補していなければ、今、広島でオリンピックが開催されていたかもしれません。
さて、銅に歓喜すれば、銀に泣き崩れる・・・金の価値が揺らぎます。
アスリートの皆さん、身体と精神のバランスが、程好くオリンピック調和されますように。
以前、オリンピックに出場した、とある100M 走者の告白・・・オリンピック代表に決まったあとも夜な夜な街に出掛けて路頭で喧嘩を売っていたそうで、衝動的な若い暴力エネルギーを発散しないと精神的な不安を抑えられなかったそうです。
突然、夜道で因縁をつけられて喧嘩を売られてもね、通常、買いたくないものです。
19世紀末、産業革命後の欧米社会には、エネルギーを持て余した若者が大量に溢れたのでしょう。
それまで狩猟や農耕に全力を注いでいた若者が、勤め人に変わってゆく産業革命後の社会変革です。
近代オリンピックの父クーベルタン男爵(フリーメイソン)は、考えたのでしょう。
ギリシャの古代オリンピック(開催中、戦争は休戦)を模倣して、力くらべ、腕自慢、走り自慢の若者たちが競いあう場があれば、勝利という目標も見つかり、社会も安心安全、スポーツを通した平和の祭典となる事を、つまり、「勝利するよりも参加する事に意義がある❗」と名言を残しました。
オリンピックの成功は、市民社会の治安にも役立っているのです。
ところで、オリンピック競技を観ていると、入れ墨、タツゥを入れた選手が21世紀に入って多くなった事に驚きます。
これも自由、多様性のファッション感覚なのでしょう。
世界中の我々年配の世代には、入れ墨、タツゥには違和感があります。
入れ墨、タツゥに関しては、日本、中国、韓国、イスラム教の国々は、似たような感覚、近い社会風土があるのかもしれません。
逆に、欧米人には、マスク着用が何か隠し事、悪い事でもしているように思うのかもしれません。
いずれにせよ、若い世代にはファッションなのでしょう。
もしも、オリンピック競技に高齢枠があり、もしも参加できる可能性があれば、頭部はスキンヘッド、両腕にはタツゥを入れて参加したくなるかも⁉️
多様性の時代、平和の祭典は素晴らしいです。
オリンピック憲章には、選手間の競争であり、国家間の競争ではないと、謳っています。
ならば、オリンピックにおいて国別の団体チーム競技は有ってはならないはず。
国別のメダル獲得競争もおかしいのです。
今日は8月6日、広島の原爆忌。
世界中の個人団体が反戦を訴えても、世界中の自治体が非核宣言都市を唱えても、国家という枠組みが平和反戦という構図をないがしろにします。
IOCのバッハ会長、オリンピック開幕直前に何の為にヒロシマを訪問したのかな?
各国のメディアも各国のオリンピック委員会も、銀、銅よりもゴールドの金が欲しいのでしょう。
IOCのベートーベン会長、第九ではなく、第一は何ですか?